教会員の投稿記事

信頼できる方に委ねる人生(2019年12月18日)

鈴木帆奈

 

私がマレーシアに来る事になったのは夫との結婚後すぐでした。
マレーシアに来て、まずは二人で通える教会を探し始めました。
私と夫は、同じキリスト教ですが、宗派が違いました。マレーシアで一緒に行ける教会が見つかるか不安でした。しかし、JCFは様々な宗派の方たちがおられるということ、そして共に日本語で礼拝を捧げる事が出来ることを聞いて、私達夫婦の意見は一致しました。
また、礼拝後、お茶会があり、直ぐに姉妹が毎週火曜日にある婦人会と、毎週水曜日にモントキアラであるバイブルカフェに誘って下さり、聖書の学びの時が与えられる事になったのです。
マレーシアでまさかここまでクリスチャンの方たちとしっかり繋がりを持てると想像して居なかったので神さまの深い深い憐れみに、本当に感動しました。

私は、マレーシアに来る前、仕事を辞めてまでマレーシアで生活するのは神さまのどのようなご計画があるのか不安な反面、新しい神さまの技を体験出来るのを楽しみにしていました。

日本にいた時は、日曜礼拝に通うのがやっとでした。日曜日に研修などがあると、職場のロッカーに朝頭を突っ込んで一人礼拝をする時もありました。

しかし、マレーシアでは、週に3回も聖書の学びの機会が与えられたのです。

喜びに満たされ、エネルギーが沸き起こり、仕事ではなく何かボランティアをしたい気持ちが沸き起こりました。
そこで、難民支援学校に週1回、アートを教える事になりました。

神さまは私に聖書の学びをする機会を増やして下さる事で、神さまに立ち返る機会を与え、いつの間にかボランティア活動をする道も備えて下さいました。
私は日本でも聖書をじっくり読むという機会を持ちたいと思っても中々実行出来ずにいました。そんな生活を神さまはよくご存知で、軌道修正する機会を与えて下さったのです。

これらから、放蕩息子が父の元に帰ってきた絵を思い出します。レンブラント ·ハルメンス·ファン·レインという17世紀を代表するオランダの画家が書いた絵です。レンブラントは『光の画家』と呼ばれていました。この『放蕩息子の帰還』では、家を飛び出した息子を描くのではなく、みそぼらしい姿で帰ってきた息子を無条件的赦しにより、暖かく迎え入れる父親の手に、この絵の焦点が合わされています。よく見ると、父親の手は、意図的に違うように描かれていて、左手は筋が浮き上がっていて男性的な手である反面、右手は滑らかな女性的な手です。これは、父親の厳格と、母親の憐れみ深さを併せ持った神さまの品性を表そうとしたレンブラントの意図が込められていると解説書にありました。
憐れみを表現した右手と、息子の服の色合いも同じ事が、二人の深い連帯感を表しているようです。

私にとってマレーシアでの生活は、神さまの憐れみから与えて頂いたものなのかもしれません。
日本で仕事をする中で、自分が正しいと思うものを道具として働いていました。
神さまだったらこのやり方はお嫌いになられるだろうと思われる事もしていたかもしれません。でも自分よがりな信仰で正当化し罪を重ねている事に気付く事も出来なかったのでしょう。聖書をじっくり学ぶ事は、自分よがりな信仰を軌道修正する大切な機会になります。
マレーシアでの生活は、神さまに軸を戻す貴重な時でした。
2019
710日に女の子を出産も、神さまの憐れみによって、無事に終える事ができ、夫との絆を新たにした素晴らしい出産でした。

自分の力ではなく、全てが神さまの御手の中で、素晴らしい神さまのご計画を体験し、神さまに身を委ねる事の大切さを改めて実感する一年間でした。

今でも、ふと、娘が私の手の中でスヤスヤと眠る時、幼子のように身を委ねる事の大切さを覚えます。

  書:マタイ18章1~6節
18:1 
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2 
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3 
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4 
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
18:5 
また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

『神さまに委ねる事』。

今後も夫と二人三脚で神さまを第一にして、謙遜に幼な子のように身を委ねて歩む者となりたいと願います。

 

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カンボジアの旅(2019年10月21日)

町田裕美江

「クアラルンプールからカンボジアまで2時間くらいで行けるから行ってみないか。」と夫から話があり、9月に一泊二日でプノンペンに行きました。
カンボジアといえば、アンコールワットの遺跡と単純に思っていた私に、「アンコールワットへ行くには、一泊二日では無理だよ。」とのことで、今回は、カンボジアの負の遺産と言われているトゥール・スレン虐殺博物館とキリングフィールドへ行きました。

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ここがトゥール・スレン虐殺博物館です。
学校でしたが、ポル・ポト政権下では、拷問収容所となったのです。
ポル・ポトは、階級差のない共産主義社会をめざすため農業に重点をおきました。
250万人のプノンペン市民は地方に強制移住。公務員、医師、教師、宗教関係者などの職歴がある者は、財産を没収され過酷な農業に従事させられました。 仕事に不満を持つ者、規則を破ったものは、拷問収容所に送られ、耳を疑いたくなるようなひどい拷問の末、生きていたとしてもキリングフィールドに移送され処刑されたのです。



のどかな公園に見えますが、ここがキリングフィールド大量虐殺センターです。毎日300人が処刑されました。
殺害の方法は、銃ではなく銃のたまを節約するため、鉈や斧、鈍器で叩くなどで殺害。
悲鳴が周囲に聞こえないよう物凄い音量で音楽を流したり、まず始めに喉を切り、声がでないようにして殺害など。
また、 赤ちゃんを母親の目の前でこの写真に写っている大木に叩きつけて殺しました。当時は肉片や脳みそが木にへばりついていたそうです。女性はレイプと恥辱のあと殺害されたと聞きました。
当時殺害された人のことを思うと胸が苦しくなり、吐き気が襲ってきたのを覚えています。
この事実は、1975〜1979年に起こったまだ最近のことです。理想の国を創るためになぜこのような残虐大量殺人が必要だったのでしょうか?
この虐殺によりカンボジアの総人口の¼の人命が奪われたそうです。
カンボジアの一泊二日の旅は、人間の罪、愚かさ、怒りを強く感じた旅となりました。

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」箴言1:7
世のリーダーの方達が、主を畏れ、正しき知恵を主なる神からいただき、正しき導きが行えるよう祈っていきたいと思いました。




東北地方一時帰国感想文(2019年9月3日)
新井勇人


私は2019年7月2日に日本に一時帰国し、洗礼をしてくれた横浜中央教会の牧師である立石章三先生の紹介で、東北地方の野蒜と言われる場所にあるサクラハウスと呼ばれるところへお手伝いに行きました。野蒜は2011年3月11日に起きた東北地方大震災によって大きな被害を受けたところであり、サクラハウスというのはNPO法人の一つで立石先生の息子である立石彰先生が地域に仕えるために被災地家屋を引継ぎ改築したところです。私が主に手伝ったのは、津波によって痛んでいた倉庫の壁の修理と子供たちとのふれあいです。

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倉庫の壁の修理は壁の取り壊しから始まり、スタッコを取付けるというものでした。学生である自分にとって、壁の取り壊しは人生初めてのものでかなり貴重な経験になりました。また、被災した子供達と触れ合う機会もありました。そこでは、卓球やケイドロをして、お互いを分かりあうことができました。他にも、サクラハウスにある、毎週木、金、土曜日に開かれるラーメン屋『らーめん楓』で食事を楽しめたのもいい思い出です。昼、夜、昼と連続でラーメンを食べられた日を今思うと幸せでなりません。他にも、毎週水曜日に開かれるサクラカフェでは、パスタをごちそうになりました。他にも色々とお手伝いや子供たちとのふれあいができて楽しかったです。

色々と貴重な体験をさせていただいた後、311の悲劇をもっと詳しく知るべきだと思い、立石章造先生ご夫妻と野蒜地域交流センターに行きました。そこでは、災害を受けた際に残っていたものやその時の映像を見ることができました。中には311が起きたとき、津波の被害を受けた駅もありました。立石章造先生がボランティアに赴き、被災した後の瓦礫の撤去作業や浸水の影響を受けた家の掃除をしている際にその駅を見たようで、その時はヘドロや泥で埋もれていたとのことです。他にも、津波によって大きな損傷を被った体育館の写真や、慰霊碑などを見、心に残る忘れられないものとなりました。

震災が起きたとき、私は小学三年生でした。その時の津波や倒壊した家屋の映像を見て子供ながらにショックを受け、「東北地方で困っている人がたくさんいます。どうか助けてください。」と何年もお祈りをしていました。そのお祈りし続けた場所に直接行き、少しでもお手伝いをすることが出来たことは本当に貴重な経験となりました。

最後に、一時帰国中に滅多にない体験をする機会を作って下さった立石章造先生、東北地方でたくさんの魅力的なお手伝いをさせて下さった立石彰先生、そしてサクラハウスで働いているスタッフさん達一同には感謝の言葉もございません。先生達のおかげでたくさんの経験だけではなく、お手伝いをすることの喜びを知ることができました。時には少しだけ疲れてしまった時がありましたがそれ以上の喜びで私の心を満たすことができました。本当にありがとうございました。




父の日の証し(2019年6月16日)
窪田敏朗

私の父、窪田禮蔵は2015年1月20日に召天しました。86歳でした。1月20日は私の誕生日でもあります。ですから父の亡くなった日は私にとって忘れられない日になりました。勤め先の同僚達にバースデイランチをしてもらっている時に日本にいる弟から父の訃報(ふほう)を聞かされました。父はこの10ヶ月間水も飲めず、自ら食事も出来ず、病院で寝たきりの療養生活を余儀なくされており、医者らはそう長くはないと言われていました。少し動揺はしたけれども、ついにこの日が来たかという感じでした。

私の父方の祖父は英語教師で、祖母はクリスチャンでした。父は土木技師として建設会社に入社し、新幹線をはじめとする各種トンネル、下水道工事に従事していました。私が幼少の頃、父は工事現場を転々としていたため、一緒に暮らせないことが大半でした。1967年東京都杉並区高井戸に転居してからは、小学校高学年から結婚するまでの約15年間を両親と一緒に暮らしました。その後父は1993年12月65歳の時に井の頭線高井戸駅の近くにある高井戸教会で洗礼を受けています。

私は父が主に導かれた真の理由を聞けていません。思い当たることはあるのですが、父は牧師先生も受洗者を増やすのが大変で、先生にも頼まれたからと言っておりました。当時私たちはアメリカのヒューストンに駐在していたのですが、一時帰国の際に父に連れられて高井戸教会の礼拝に出席し、父が嬉しそうに教会員の皆さんに私たち家族を紹介していた記憶があります。事実その牧師先生と父は良い関係だった様で、父の言葉をかりれば、後にその先生が教会内の意見の対立をきっかけに退任された以降は、教会のごたごたが嫌になり、新しい牧師先生や教会員の方が自宅に訪問してくれたり、教会の週報や刊行物も定期的に送ってくださったにも関わらず、高井戸教会に足を運ばなくなりました。

そんな父でしたが、自分の葬儀は教会で行うようにと、これだけは生前からはっきり私に伝えくれており、高井戸教会で葬儀をあげる際の諸手続き、費用等を説明した一枚ものの資料を随分前から預かっておりました。ですから父がこの先そう長くないと知った時、一番先に思いついたのが高井戸教会への連絡でした。高井戸教会の七條真明先生にご相談をしたところ、司式を執り行ってくださる旨ご快諾頂いた上に、入院先の病院にも父を見舞ってくださいました。この時の父はアルツハイマーを患っておりましたけれども、主のみ言葉が改めて父の心のうちに入っていったのではと思っています。

1月23日の葬儀には父を知る高井戸教会の教会員の皆さんにもご出席をいただき、父を天のみ国に送り出すことが出来ました。七條先生は父との接点がなかったこともあり父が高井戸教会に何か書き残したものがないか、週報や刊行物をさかのぼって調べてくださりました。そして多くはないけれども父が高井戸教会時代に書いた二つの証を先生のメッセージの中で紹介してくださいました。一つは“私には夢があります”というマーチン・ルーサー・キング博士を称えたもの、もう一つは“賛美歌285番との出会い-主よみ手もて”という共に短いエッセイ風の証でした。

私は父の最も尊敬する人物がマーチン・ルーサー・キング博士であったことをこの時まで知りませんでした。すべての人間が人間として尊ばれる社会をめざすという、極めて広い視野を持つ信仰として彼の業績を称え、“時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めの福音を信ぜよ”とマルコによる福音書1:15で結んでいます。

もうひとつの証は昭和23年戦争に敗れ荒廃の世の中で、高校の卒業記念に有志が集まり演劇祭を発案しアンドレジット原作の田園交響楽を取り上げたことが書かれています。父はこう記しています。身寄りもなく全く無知で動物的な盲目の美少女ジェルトリードが牧師に助けられ、その教育と神の福音により立派に知性が磨がかれていく。やがて待望の開眼手術は成功し、日の光は明るく、風はきらやか、空はこうも広々としている中、彼女の開かれた眼は何をみたのであろうか。彼女は身を投じてしまうのである。

舞台では二度三度と静かに賛美歌が奏でられます。曲目田園交響楽が演奏されたヌーシャテルの音楽会では目は見えないけれど耳で聞く幸福(しあわせ)を強く感受し、音の美しさに魅了させられる彼女。またアルプス山麓小さなブレビィヌの礼拝堂からオルガンの調べが流れてくる、それはまさしく賛美歌285番であり、彼女自身の伴奏であった。“主よみ手もて。ひかせたまえ。ただ我が主の、道に歩まん。いかに暗くけわしくとも、みむねならば われいとわじ。”父は今でも全ての舞台光景が鮮明な映像となって脳裏を去来し、賛美歌285番は私の心の中で永遠であると結んでいます。

私の知っている父は殆ど本を読まない人でした。特に小説を読んでいるのをみたことがありません。父の小さな本立てにあった数少ない本の一冊が田園交響楽であったこと、唐突に一冊だけあるこの古い海外文学に子供心に違和感を感じていたことを思い出しました。父にとっては賛美歌285番に結びつく青春時代の大切な思い出の一冊で、その後の人生でも大切に手許に持ち続けていたことをこの時理解しました。私は父の葬儀でのこの思いがけない発見に主の導きと聖霊の働きを感じざるを得ませんでした。私は父と生前同じクリスチャンとして話をしたことはなかったけれど、この時から神様から導かれた同じクリスチャンとしても父を理解することが出来る様になった気がします。

父の葬儀でも父の納骨式でも個人愛唱歌としてこの賛美歌285番は高らかに賛美されました。私はその後、前橋の弟に引き取られた母がいなくなったひっそりとした無人の実家で整理をしていた時に、運よく原稿用紙に鉛筆で書かれたこの父の証の原稿を発見し、嬉しくなって本棚にあった田園交響楽の新しい文庫本と一緒にKLまで持って帰ってきました。多分この文庫本は父がこの証を書く時にあらためて買って、読み直したものではないかと思います。本日この証が出来ましたのもこの原稿の発見のおかげでもあります。

今日は教会のご厚意で私の証の前に父の愛唱歌である賛美歌285番を皆さんに賛美して頂くという祝福に恵まれました。KLJCFの父の日礼拝でクリスチャンとしての父の思い出を私自身はじめて振り返って証する機会を与えられ本当に嬉しく思います。全てを主に感謝して証を終えたいと思います。





聖地旅行感想文(2019年2月)
窪田敏朗

私は2019年2月1日から9日シンガポールJCFの松本章宏牧師が引率したイスラエル聖地旅行に家内と参加しました。数年前KLJCFのファミリーキャンプを通じて松本先生と出会い、今回この機会が与えられ本当に感謝でした。シンガポールを中心にタイ、インドネシア、マレーシアのASEAN各国、日本各地から約30名の日本人兄弟姉妹が集い、テルアビブからイスラエルに入国後、カイザリア、ナザレ、カナ、ガリラヤ湖周辺、エリコ、死海、エルサレム、ヨッパ等を訪ね、聖書の世界を体験してきました。尚、この聖地旅行では中川健一牧師が引率するハーベスト聖地旅行グループ一行、ミラノの内村伸之牧師が引率するヨーロッパグループ一行と一緒に3グループ合同でメシアニック・ジュー(イエス・キリストを信じるユダヤ人)の方々をお招きし“エルサレム会議”というカンファレンスをイスラエルのホテルで2日間に亘り開催しました。以下が初めての聖地旅行を終えた直後に参加者の皆さんと共にシェアした私の感想文です。
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 初めての聖地旅行で多くのことを学び、体験しながら、楽しく皆さんと交わりを持てましたことを主に感謝しています。聖地旅行は思い立った時、チャンスのある時に行くのが最も大切と松本先生に背中を押して頂き参加を決めましたが、今回参加して本当に良かったです。
 当初エルサレム会議についていけるか少し心配でしたが、今回の聖地旅行を終えて一番印象に残ったことはエルサレム会議のテーマでもあったユダヤ人そしてキリストを受け入れたメシアニックジューと呼ばれる人々のことでした。決してサービスは良くないけれどユダヤ人でいっぱいのイスラエル航空でのフライトで旅は始まり、ツアーバスのガイドもメシアニックジューのマリアさん、エルサレム会議でもメシアニックジューの先生方から直に証やお話をお聞きし、旅行中はユダヤ人づくしで、ユダヤ人を沢山垣間見てはユダヤ人とはいかなる人々なのかを感じとる機会を与えて頂きました。
 ホロコースト記念館では時代を追ってその悲劇に立会い心を痛め、死海写本を通してユダヤ人が記録の民として神に選ばれた所以を理解出来ました。そして何よりもメシアニックジューの皆さんがユダヤ人社会の中で依然難しい立ち位置にいながらも、確実に聖書の記述に向かって前進している姿とその事実を実感しました。ユダヤに軸足をおいて聖書に立ち返る姿勢の必要性を学び、この大きな潮流の転換点に一信徒としてエルサレムで立ち会えた幸運に、単なる聖地旅行を越えた主の招きと導きを感じる貴重な体験となりました。
ガリラヤ湖畔の早朝礼拝と日の出はイエスと弟子たちの出会いにタイムスリップしたかの様で祝福されました。個人的には4日目夕刻に立ち寄ったワジケルトから眺めたエルサレムからエリコに続く渓谷の眺望もとても印象に残っています。エルサレムとエリコの距離感と高低差、荒野の舞台が実感でき、エリヤやイエス等多くの登場人物がこの間を行き来したかと思うと、聖書の世界に引き込まれる感じがしました。またマサダで観た紹介映像にも一部使用されていましたが、MASADA(邦題は炎の砦マサダ)というピーター・オトゥール主演の映画(1981年)を機会があったら一度観てみよう思います。 
 最後に今回の聖地旅行を企画、引率してくださった松本先生ご夫妻、準備段階から献身的にサポートされてきた皆さんに厚く御礼申し上げます。先生の熱いメッセージを通して聖地を拝見出来て本当に素晴らしかったです。加えてカナの婚礼教会での夫婦参加者への祝福、ヤルデニットでのヨルダン川での兄弟姉妹の洗礼式、そして2日間に亘るエルサレム会議の参加等、忙しかったけれど変化に満ちた内容の濃い祝福満載のプログラムで大いに満たされました。有難うございました。                       


ガリラヤ湖畔カペナウムにあるペテロ像%uFFFDの前で