コーはんな牧師夫人による学び

第35回:ポジティブ思考ってどんな時でも有効でしょうか?

私達は「全ての事において、前向きでポジティブ思考でなくてはいけない」と考えがちではないでしょうか。確かにそのような考え方は、わたしたちが嫌な思いをして、そのことをいつまでもグジュグジュ考えて、気分が悪くなるときに、もう少しポジティブに違った角度からそのことを捉えることにより、自分を奮い立たせるためには有効かもしれません。心の持ちようで結構自分の気分の浮き沈みを止めることができるからです。

聖書には確かに「全ての事において喜んでいなさい」という命令があります。これは有名な子供のお話し「ポリアンナのお話し」を思い出させてくれます。彼女は4歳で母親を亡くし、病気がちな牧師のお父さんと二人でつつましい暮らしていました。寂しい思いをしているポリアンナを励まそうと、お父さんは彼女に一つのゲームを教えてくれました。「良いこと探し」のゲームでした。どんな出来事もよく探してみると良いことも潜んでいると。それを探すことにより、元気が出て、喜ぶ人生を送れるようになるというものでした。いつも楽しくそのゲームをポリアンナはお父さんとしていましたが、そのお父さんも彼女が10歳になったときに亡くなってしまい、彼女は天涯孤独な身となってしまいました。しかしお父さんの遺言で、遠く離れていて、まったくコンタクトが途絶えていたお母さんの妹さんの家にポリアンナは引き取られることになりました。この叔母さんは独身でしたが、立派な大きな家に住んでいて、女中も雇えるほどの経済的余裕がある方でしたが、意地悪で彼女のことを愛す気持ちを持ち合わせてはいませんでした。しかし彼女は持ち前の明るさで「良いこと探し」のゲームをし、またその町で不平不満のたまっている町の人達をそのゲームを教えることで変えていくのです。しかしあるとき彼女は交通事故に遭い、それ以降一生歩けなくなるという悲劇が彼女に襲ってしまったのです。さすがのポリアンナもこの時だけは、このゲームをすることができませんでした。毎日家の中の自分の部屋に閉じこもり、自分の憐れな境遇を恨み、悲しみ落ち込んで何もすることができなくなってしまいました。そんな彼女のニュースを知らされた街の人たちは、彼女の元に続々とお見舞いに来てくれ、彼女の教えてくれたゲームがどのくらい彼らを助けてくれたかということの証しを、次から次へと話してくれ、そのことを通して彼女の心もまた変えられるようになりました。

このポリアンナのお話しから、自分の考え方、視点をネガティブなことに向けるのではなく、ポジティブなことに変えようとしても、人生にはそれだけでは間に合わない、大きな試練がドカッと人の上に覆いかぶさると、前向きな考え方ではにっちもさっちもいかなくなる場合があるということを、私達に教えてくれます。

ある牧師がこんな話しをしてくださいました。彼の教会に集っていたあるお母さんの娘さんが引きこもりになって、それを何とかしようと周りが頑張るんですが、全然状況は改善しません。お父さんは非常に優秀なビジネス経営者で、彼は今までどんなに大変な状況の中にあっても、一度も赤字を出したことがないすごいやり手の有能なビジネス界では有名な人だったそうです。彼が成功したのは、彼はとても柔軟な考えを持っていて、「こっちがダメだったら、あっちをトライする。」と様々な方法を使って乗り切って来たからだということです。だからどんなことが起こってもへこたれないのです。その娘さんに対しても、このお父さんは彼女が自分では、引きこもりの状態から抜け出ることができないことを知っていたので、「お父さんである自分が変わったらいいんだ」と自分で結論を出したそうです。そしてとにかく手を変え、品を変え、彼ができることを全てやったんです。今まで何十年も仕事一本で生きて来て、家族旅行なんか一度もしたことがなかったお父さんが、「娘のためなら」と教会で主催した聖地旅行にも一緒についていくようになりました。しかし娘さんはどうしても団体で行動することができず、せっかく行った聖地で企画される数々の名所のツアーに、グループで行動することができず、結局ホテルの部屋から一歩も出ることができなくなりました。それでも絶対にへこたれないお父さんは、「こんなにお金をたくさん出してツアーに参加したのに、皆と一緒にあちこち色々な場所へ行って観光できず、ホテルにだけ留まることは何と勿体ないことか、お金の無駄だ」とは思わず、彼の持ち前のポジティブ思考で、「これは良いことだ。娘と二人きりになって、しっかり話すことができる機会が与えられた」と考えて、彼女に付き合って、ホテルにこもりました。しかしそのようなお父さんを見て、彼女は変えられたでしょうか。否です。彼がポジティブ思考で明るく前向きになって、彼女と接しようとすればするほど、彼女は自分の殻に閉じこもってしまうのです。結局彼女が求めていたのは、彼女と正反対で、「いつも積極的で明るく、やればできる、ポジティブに事を当たれば、ドアが開く」というようなスーパーマン的お父さんではなかったんです。お父さんの弱さを自分にも見せてくれる、できないところがあり失敗する自分と同じお父さん、そして自分の悩み苦しみに一緒に泣いて寄り添ってくれるお父さんを彼女は求めていたのです。

もう何をしても心を開いてくれない娘さんに、さすがのお父さんもお手上げでした。ただ最後のツアーの日、賛美の時間があり、その時間だけは娘さんが「参加する」と言い出したのです。そして賛美をするうちに、その娘さんは急に、「私にも歌わしてください」と言って皆の前で独唱したと言うのです。それを見てお父さんはびっくり仰天してしまいました。「誰も変えることができなかった自分の娘が、賛美に心が開かれて、神に向かって賛美の歌を歌ってくれた!」それで物凄く感動したお父さんは、自分もクリスチャンになることを決心したそうです。

このことも、「前向きに生きなければならない」ということに縛られ過ぎると、それだけでは人生に対処できないことがあることを知らされます。

聖書では確かに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」(1テサロニケ5:14)と勧めがあります。しかし同時に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)とも教えられています。と言うことは、私達は悲しくなることもあり、そのときはその感情に素直になって、悲しむことが必要だという事ではないでしょうか。

自分の気持ちに正直であること、そしてクリスチャンであるからと、「いつも感謝して喜んでいなければならない」と、優等生的な振る舞いをすることで、閉塞感がかえって自分にかかってしまい、自分自身でいられなくなったら、本末転倒です。大切なことは、自分自身、また自分の人生に起きるすべてのことを、ありのままを受け入れていくことです。そしてそのなかで、前向きにポジティブ思考で生きていければ素晴らしいけれど、人生につまづくようなことが起きたり、人との関係や、勉強、仕事で挫折したりすることがあって、そんなときにたった一つの人生哲学、「前向きに生きる」が全てに通用するわけではないということに気付けることが必要です。ちょうどこの有能で優秀な経営者が悟ったように、私たちも試練に遭遇したとき、無力を感ずるときに、人生をその人生哲学一つに当てはめて生きようとする一面的な見方から、私達を救ってくれるのではないかと思わされます

それでは人生に対してどういった姿勢を取っていったらいいのでしょうか。わたしはやはり答えは神様にあると思います。私達は弱い存在なので、自分の苦しみや痛みを分かってくれる存在を求めています。誰かが自分のことを本当に理解してくれていると知るとき、私達はその痛みの中でもなんとか起き上がることができるのです。とはいえそんな自分の一番深いところまでわかってくれる人を探すことは容易なことではありません。でも実は私達のことを100%理解してくれる人が、たった一人だけいることを、皆さんはご存じでしょうか。それが私達をお造りになった神様で、その神様はいつでもどこでも私達が、神様に向けて語る言葉を聞いてくださる方なのです。ただ私達の中で求められることは、本気で、本音で神様と交わる真剣さだけです。私達がピンチにあった時に、絶対に私達を見捨てることはしないと約束してくださった真の友であるイエス様と繋がっていくときに、わたしたちはやせ我慢をしてまで、ただがむしゃらに前向きに進み、ポジテイブ思考だけで、自分の人生を乗り切って行こうとする限界を超えた力が得られるのではないかと思います。どうでしょうか。

聖書には「私が弱い時にこそ、私は強い」(第2コリント12:10b)という言葉がありますが、それは弱い時にこそキリストの力が私に現れるからです。人間の弱さの中で発揮される神の力を皆さんは人生の中で体験しておられるでしょうか。そしてその神の力を起爆剤とするときに始めて、自分の力では無力であった、人間としての弱さ、つまずき、困難、失敗、挫折の真っただ中で、それに屈せず、それを乗り越えることができるのだと思います。それは前向きな姿勢、ポジテイブ思考とは全く違った次元で、私達が弱い時にこそ体験することができる素晴らしい信仰者の特権です。そして私達をこよなく愛してくださり、わたしたちの心の思い、葛藤、苦しみを全て理解してくださり、私達に耳を傾けて、絶対に私達を

見捨てない最上の友であるイエス様を見出した時に、そのお方に自分と自分の人生を委ねて歩んで行くときに、自分の力を超えた主の力が私達の人生に働くことを、私達は体験するのです。皆さんはそのことを証しすることができるでしょうか。

 

第35回:「でも」という言葉、皆さんも使っていますか。

私達は「でも」という言葉を何気なく日常茶飯事使っています。しかし注意しないと、この言葉を使い始めると、結構癖になり、すぐにそういう言い方をしている自分に気付いたりします。また自分はしなくても、私達の身近な人達の中で、相手が何か言うたびに、「でも」といって応答する人がいることを、私達も観察することができると思います。そういう人は、相手より色々なことを客観的に見ることができ、提案を受けても、他の選択肢があることを相手に伝えようとしているのかもしれません。けれども自分であり、他人であり、「でも」と言ってセンテンスを始めたり、「でも」といって相手の提案を否定して、できない理由、ダメな理由を説明することは、一見衝動的になんでも受け入れてしまう人より、筋が通っていて、クールな人に見えますが、実はその人のネガティブ思考が表面化しているだけであることなのかもしれないのです。

そして「でも」という言葉を使うと、いかにもその言葉を使った人が、言ったことに関して、その人の詳しい分野であるので、それに対する意見があるような錯覚を与えてしまいますが、実はその人はただそう言うことが癖になっていっているだけで、そういうことにより人の足を引っ張っていることを、自覚していないからなのかもしれません。

ある精神科医は「でも」という言葉を使う人は、保守的なマインドになりがちであると言いました。つまりそれはその人の中にある新しいことに挑戦することへの恐れであったり、現状を変えることに勇気がでず、尻込みしてしまう性質の表れらしいのです。

さて皆さんはどうでしょうか。何か相談をもちかけるときに、「でも」と言って始める人の所へアドバイスを求めて行くでしょうか。また何か思いついたら、その人の所へ行って話してみようと言う気になるでしょうか。そういう言い方をする人は、往々にしてリスク回避をするので、相手の思い付きやアイデアを聞いても、多分否定的なリアクションしか返ってきません。だから必然、人はそういう人の所へは、相談しに行くことはしないと思います。

そうするとそういう人は、自分の交際範囲が非常に狭まり、また人間関係を広げることができなくなってしまいます。人がこういう風な話し方をする人を避けるようになるからです。

それぞれの専門分野である程度成功している人達、あるいは色んな事がうまくいっている人は、「でも」という言葉をほとんど使わないそうです。それは彼らはいつもできないことや、やれないこと、ダメなことに焦点をあわせるのではなく、「どうすればできるか」という可能性についてポジティブに考え、そこから解決法を見出していこうとするからなのです。すぐに「でも」を使おうとする人より、使わない人は、アイデアや何か発想することが浮かんだら、それをすぐに頭の中でもみ消したり、打ち消したりせず、あたため続け、同じようにポジティブに考える人とアイデアを交換することで、もっと新しい可能性が広がっていくし、思い切って何かにチャレンジして実践してみることができ、そこからその人への人間的な成長につながっていくかもしれません。

困ったことに、これが習慣化してしまうと、神様への奉仕に対しても「ちょっと待った」をかけてしまう傾向が出て来ます。

モーセがそうでした。彼はエジプトから逃げてきて、ミディアンの荒れ野に住むようになってから、すでに40年間が過ぎていました。その間彼は一介の牧者として、人生のゴールも何も無く、ただ無意味に時が流れていくのに任せていました。しかしこの長い間の不毛の人生の中にあっても、神様はモーセをお忘れになっていませんでした。そしてご自身を現わしてくださり、モーセを物凄く大きな働きに召してくださいました。それはエジプトで奴隷として苦役にあえいでいるイスラエルの民を解放して、神様の与えた約束の地、カナンへと彼らを導き入れる民のリーダーとして、立てることでした。このような予想だにしなかった大業に圧倒されて、出エジプト記4章1節で、「ですが」という言葉を皮切りに、これより、色々な理由を挙げて、モーセは自分にはそのような働きはできないことを、神に連ね上げました。最初は彼は、神様にこう言うことを想定して語ります:「イスラエルの民は、私を信ぜず、自分の声に耳を傾けず、そして主はあなたになど現れなかったと言うでしょう」と。神様はそれに答えて、モーセの杖を使って奇跡を現わしてくださり、それにより民は神様がモーセに現れたことを信じ、モーセの声に聴き従うようになるだろうと仰いました。次に、モーセは、「自分は口下手でうまく人に話せるような者ではない」と言います。しかし神様は「あなたを任命したのはほかならぬ私で、私が必要な人に話す言葉を授け、言うべきことを教えよう」と言います。それでもモーセはためらい、神様の命令に従うことを渋ります。そして言い訳が尽きたモーセは、何と最後には「自分はそのような働きをするにはふさわしい者ではないから、どうか他の人を遣わしてください」と言います。神様がこれだけ明確にご自身を現わし、そしてモーセに使命を託して、「この働きをせよ」と命じたのに、モーセは言い訳ばかりして、神様の召しから逃れようとして、他の人を遣わしてくれと言うのです。何という思いあがった高慢な態度でしょうか。神様の言うことを素直に受け取ることができず、彼はこう言わんとしているのです:「神様、自分のことは自分が一番良く知っています。わたしはそんな滅相もない大きな働きをするには欠けがありすぎます。神様がわたしを選んだのは、きっと何かの間違いだと思います。他の人を選んだ方が絶対得策です。わたしのことは放って置いて、他の人を召してください」と言っているのです。しかし、神様は一旦自分の業に仕える人を選択してくださったなら、決してその人を手放すことはしません。神様も、このように尻込みして、言い訳ばかりしているモーセに、業を煮やしましたが、それでもモーセを諦めず、モーセの代弁者として、モーセの兄アロンをモーセに与えて、彼を助けると約束してくださいました。小心で恐れでいっぱいになっていたモーセに神は譲歩して、助け手まで備えて、モーセがその大役を演じることができるようにしてくださいました。もう言い訳ができなくなったモーセは、その後確かにイスラエルの民の解放者として、大きく用いられ、イスラエル人はモーセのリーダーシップの下で、遂にエジプトを離れて約束の地へ入ることができるようになります。

ここからとても人間的なモーセを、私達は垣間見ることができますが、幸いなことに、そのモーセの言い訳を神様が甘やかして、彼の言いなりになっていたら、他の人が、モーセの代わりになったとしても、これほどスムーズなイスラエルの民の解放と、彼らを導く能力を発揮する人は出て来なかったでしょう。ユダヤ教の歴史の中で、イスラエルの民に神の律法を授けた最も尊敬されている人物として、モーセは後世に残る名前として、人々に記憶されて行くことはなかったでしょう。また彼が神様の御計画に最後には「イエス」と言うことができたため、生まれた時から、神様が持っていた彼に対する大きな計画のために、殺されるはずだった彼が生かされ、その後エジプトの王妃の息子として、最高の教育を受けることができました。そして40年間というブランクがありましたが、その後その体験を通して、柔和になったモーセが、大役を果たす業に遣わされるようになるという、神の彼に対するオリジナルな計画が達成されたのです。

わたしは最近読んだ記事で、精神科医の香山リカさんの新しいことに向かって挑戦する心意気に励まされています。彼女は若い頃運転免許はとっていましたが、運転には全く自信が持てず、しかも弟さんからも「運転は無理だ」とさじを投げられ、一度も更新せずに失効していたということです。ところが彼女は55歳になったとき、医大時代の同級生が地元に戻って、地域医療に携わっていることを知って刺激をうけ、60代以降の人生を考えるきっかけになった方です。そして彼女も将来へき地や、無医村で医療に従事するためには、何が必要なのかを書き出してみて、気づいたことの一つは、ハードな仕事に耐えられる体力と運動能力で、自動車免許の取得は必須であり、車なしではへき地で働けないことがわかったのです。それで彼女は50代半ばで一念発起して、再度教習所に行って教習をうけ、無事に免許を取得できたということです。そしてその間筋トレのジムに行ったり、ダンスのエクササイズを継続しながら、体力をつけ、医療の学び直しもして、ついに60歳を過ぎてから、北海道の小さな町の診療所の副所長に就任して、地域医療に携わるようです。つまり彼女は「でも」という言葉を使って、自分が今まで苦手意識を持っていた自動車の運転も、運動も、精神科以外の医療(内科や外科)なども、自分でそれは苦手なことだと判断していたり、或いは周囲から言われたことが「呪い」のように沁みついて、彼女を縛っていたので、それらをすることをずっと避けていました。しかしその「でも」という気持ちを振り払い、思い切って挑戦してみることで、実は、その一つ一つが、それほど彼女が苦にしていたほどのものでもなかった、ちゃんとやれば自分でもできることに気付いたと言います。

さて私達はどうでしょうか。私達が気づかないうちに呪文のように唱えている「でも」というものがあるでしょうか。そしてそれが私達が新しいことを始めるのに、壁のようになって塞いでいるものであることに、気づけてもらえたでしょうか。

 

第34回:孤独との付き合い

「体が健康で、創造的なことに励み、人生がうまくいっている時には、孤独などないように見えます。しかし私は、孤独と言うのは人間の本性に元来備わっていて、だから隠蔽することができても、決して本当になくなるものではないと思います。人間である限り、私達は孤独なのです。人間の心を完全に満たしてくれるものはどこにも存在しないからです。」とラルシュの創立者ジョン・バニエが言っていました。確かに他人と物理的、心理的な距離が広がり、現代の日本は「人口1億総孤独」と言える時期ではないかと誰かが言っていました。

しかし一体孤独は何処から来るのかというと、実は聖書がその孤独の出どころを教えているんではないかと思います。人間の祖先であるアダムとエバが神に背いて罪を犯した時点で、人間には孤独と言う気持ちが入り込んだのです。神に完全に信頼して、全ての事を任せ委ねて、神に従って生きる生き方を選ばず、自分達も神のように偉くなり、自分の意志でやりたいことを決めるという選択をして、神の命令に不従順になってから、人は神と疎外しただけでなく、お互い同士の間にも疎外感が生まれました。自分の犯した罪を相手になすりつけて、相手を責め、自分のやった責任を取ることを回避した結果、夫婦と言えど、完全な一致は成り立たず、相手を100%信頼することができず、その結果人間同士の間に断絶が起きてしまいました。本当は私達は人と結びついているとき、自分の居場所があるときに、真の安心感と充足感が与えられるのに、家族の間でも摩擦があり、調和と一致が無い所から、私達は孤独感にさいなまれるようになりました。

罪がこの世界に入ってから起きたもう一つの結果は、罪の罰として、私達は永遠に生きれなくなったことです。私達には霊が与えられていますが、その霊が永遠なもの、いつまでも亡くならず、継続するものを切に求めているのです。聖書の中の「コヘレトの言葉」と言う本には、神様が永遠を思う心を人に与えられたとあります。私達は神様からオリジナルに永遠に生きるように造られ、魂は死んでも滅びないのです。だから私達はこの世界で、いつか死がやって来ることを受け入れられないのです。どんなに立派なことをやっても、どんな道を究めたとしても、それを自分が思う存分満足するまで追求することができず、高齢になり、病気を患い、自分がやったことを途中で残して未完成のまま、誰かに受け継いでもらう、あるいは最終的にはそれが死で全て泡となってしまうとは、何と虚しいこと、無念なことでしょうか。だから私達の心には空しさがいつも漂っているのです。そしてそれが孤独感を芽生えさせるのです。

ただ私達人間は不都合なこと、痛みを伴うことに目を背けることにたけています。ゆっくりと自分の人生を思い巡らすことなどせず、いつも何かに追われて、忙しい生活に明け暮れていると、そういう心の空しさが聞こえて来ず、意識に上らせることもなく、毎日を過ごすことができます。特に私達がまだ若く、エネルギーに満ち溢れていて、野心もあり、この世界で人に認められ成功しようと努力しているときは、孤独感はじっと鳴りを潜めて、覆い隠れています。しかし人間は繊細な存在なので、ちょっとしたときに孤独感が顔を出します。物事がうまくいかないときや、先が見えなくなった時などです。あるいは病気になったり、友達に恵まれず孤立していると感じる時にです。悩み事があって眠れない夜や、仕事や人間関係がうまくいかないときもです。特に年を取って体の不具合に遭遇し、自分の周りに安心してよりかかれる子供達がそばにいないとき、そうこうしているうちに伴侶に先立たれ、そして兄弟、姉妹が亡くなり、友人達が一人、また一人と他界していくとき、喪失感と共に深い孤独感を味わいます。

ということで、孤独とは、自分が何にも繋がっていない、全く切り離されていると感じるときに生じる心の深い所からくる気持ちです。たとえば仲の良い筈の友達から誕生日にお祝いのメッセージ一つ貰えなかったりすると、気にかけて貰えない、愛されてない、寂しい、と孤独な気持ちが強くなってしまうのです。また体調が悪くなると心細くなり、誰かに助けてもらいたい、傍にいてもらいたいと言う気持ちから孤独感が募ります。また一人で過ごす時間が長く、あまり人とコミュニケーションをとる機会が少ない人は、孤独を感じる傾向にあるんではないでしょうか。また子供が大学や、就職で家から巣立って行った時に、親は今まで一緒に過ごしていた子供が、家を離れていってしまったことに対する喪失感から孤独感を感じるでしょう。わたしもアメリカ留学が終わって、マレーシアに家族が本帰国したとき、大学に留学する長男を一人アメリカに残して来ました。本当に不思議なんですが、家にいる時はあまり感じないんですが、教会に来て彼と同じ年頃の男の子を見ると、彼のことが思い出されて、切なくて、賛美をしていても涙がひとりでにこぼれてくるのです。

それではこのような孤独から解放されるのはどういうときでしょうか。それは大抵人が人間として尊重され愛されていると感じる時、人との繋がりを感じる時なのです。しかし同時に実は繋がりで安心感を得ようとすると、孤独の中で神に近づくという可能性を妨げる危険性もはらんでいます。なぜなら集団の中に自分が安心できる居心地の良さを見出したり、人と繋がることにより、自分の中にある孤独は解消されるかもしれませんが、他方神との人格的関係を得るのは、グループではなく、個人としてだからです。そして実はこの一対一の神との関係によって、人間は本当の意味で孤独から解放されるのです。なぜならパスカルは、「人の心には神の形をした空洞があり、それはいかなる被造物によっても満たされることはなく、イエス・キリストを通して知らされた創造主である神によってのみ満たされるのである」と言っています。ということは、この空洞が神様によって埋められるまで、人間は孤独を体験しなければならないのです。そしてそのような孤独感を人間が味わうように造ってくださったのは、ほかならぬ神様であり、その孤独を体験することにより、人間が神に出会うようになるためなのです。

だから人との繋がりだけでは、孤独感は本当の意味では満たされません。神様との繋がりを持つときはじめてこの空洞は埋まるのです。とはいえ死に象徴される人間の有限さに対する孤独感は無くなるわけではありません。それは私達が一人でこの世に生れ落ち、一人でこの世の最後の旅路を歩かねばならない人間の持っている究極的な孤独感です。どんなに親しい間柄でも死への道は一人旅です。誰もついて行ってくれる人はいません。また私達が頼りにしている健康、仕事、お金、家族、友人、どれも大切で必要なものですが、永遠に続くものは何一つありません。ですから、私達には空しさや孤独感がしばしば襲ってくるのです。

そんな存在である私達にとって、他者に依存せず、「個」として自立しながら、孤独といかに付き合っていけるかを考えていくことは大切ではないでしょうか。人間が社会的動物である以上人との結びつきを求めるのは、自然なことですが、気をつけないと、寂しさや孤独感は、依存心から来ていることがあります。孤独感は誰かや何かにすがろうという依存心から来ていて、結果的に精神的に不安定な状況を引き起こします。これは自分の自信の無さへの裏返しともいえます。自分で自分を充足することができず、外側から何か満たしてもらおうとするためです。そんな人への依存心から解放されるためには、まず私達は孤独と向き合い、「孤独は不幸」と言う前提に疑問を投げかけ、孤独を過度に恐れる必要はないと言うことを自分に言い聞かせましょう。パートナーがいなくても、付き合いが苦手でも、友人に恵まれていなくても、「幸せな孤独」というものがあるんだと言うことを、認識することです。人の群れに囲まれることがない場所で、誰にも忖度せず、自分の心に耳を澄ませて対話し、今まで自分自身が気づかなかった本当の自分に巡り合えることもあるのです。また本当の意味での孤独を体得した人だけが、その孤独をバネとして、未踏の道に分け入り、新しい物を創造したり、真理と正義を世界にもっと実現したりする力を獲得できることは歴史の中でも証明されています。世の中に迎合したり、適合しない、世界の偉人と呼ばれる人たち、預言者、芸術家たちは、孤独を糧として燃え、偉業を成し遂げることができました。何より孤独の中で、自分の弱さと、自分の有限性を認める時に、本物の助け、本物の救いが神様から与えられます。

もう一つ、信仰者にとっての一番の慰めはイエス様と歩めるということです。ヘブライ人への手紙13章5節にこう言う約束があります。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」。イエスキリストは私達がどんな孤独な時でも、決して私達から離れない、いつも共にいてくださると約束してくださっているのです。ですからわたしたちは、どんな時も決してひとりぼっちではありません。

そのような「個」を自立させることができる時に、孤独を力に変える生き方を選ぶことができるのではないでしょうか。それは自己受容から始まり、自己尊重へと移行していくプロセスの中で、孤独は、人を弱くするものではなく、かえって強くするものであることに気付けます。そのような自立した個が確立していくとき、他人への依存心から脱却でき、他者に対して引け目も負い目も感ずることなく、愛のある繋がりを自分と関係を持つ人との間に作れるようになります。

締めくくりに、この今日のタイトルでのキーワード「孤独の力」を覚えていきたいと思います。孤独感や寂しさは人間である限り、いつもつきまとってくるもので、「孤独感を無くす」ことはできないけれども、「孤独と付き合っていく」ことはできます。

 

 

 

第33回:受け止めるとは

わたしたちは大変な事が起きることがわかったり、嫌な事がやってくると察知する時、どんな反応をするでしょうか。「困った、困った、どうしよう」とパニックになり、不安でいっぱいになったり、「いやだ、いやだ、そうなってほしくない」とかいう気持ちが先行して、落ち着いて物事を見ることができなくなり、その結果尚一層大変な事が大変になり、嫌なことに対してもなおさら嫌さが輪にかけて増長され、もう耐えられないような精神状態になってしまうのではないでしょうか。

わたしはこの前婦人会に参加して、とっても素敵なお話しを聞きました。ある姉妹がお祈りが聞かれて、想定内の最悪のことが起こっても、ものすごい平安が与えられて、そこを乗り越えることができたという証しをしてくれたのです。想定内の最悪という言葉が心に残りました。もし想定外だったとしたら、それは私達のコントロールできる範囲を超えてやって来るものなので、私達の力では何ともしがたいものです。けれどもこれから起こるかもしれない出来事に対して、こういうことが将来起こるかもしれないと、前々から自分で想定しておいて、その想定内の中でも特に最悪の場面や状況を、わたしたちが頭の中で描いておき、そういう出来事に出くわしたら、どうすればいいのか考えておくことは、必要なことではないかと思わされました。そうしておくと、実は現実には起こって欲しくない最悪のことだけれども、でも一応そういうことも起こりうると、自分が事前に頭に入れておいたことなので、いざそれが起こったときに、落ち着いて対処することができるんじゃないかなと感じました。そういう心の準備がされていないと、急に起きてほしくないことが起きてしまうと、あわててうろたえ、取り乱してしまって、あとで自分も後悔してしまうような失態を演じてしまい、そのことのためにかえって後々まで辛い気持ちになったり、そんな振る舞いをしてしまった自分が情けなかったり、許せなかったりしてしまうことがあるかもしれないからです。だから自分の人生にとって大きな試練である愛する人の死別や、自分自身が不治の病に冒されて命があと数か月しかないなどと、お医者さんに告知されるような事態に遭遇したときでさえ、如何にして落ち着いて平安を持って対処するかは、自分の心の持ち方と、それに対する意識と、覚悟の問題ではないかと思わされています。

それは実は日々私達が遭遇するネガティブな出来事や、人との関わりにおいてのトラブル、自分が考えたようには物事がうまく進んで行かないときに、それを私達がどのように対処しているかが、決め手となっていくんではないでしょうか。なぜかというと、大きなことが起こったときに、それと似たことを私達がする素地を、既に日々作り上げているので、急に違った対処の仕方をしようと思っても、なかなか切り替えられないのではないかと思うからです。嫌なことには目をつぶったり、対人関係においても問題が起こっても無視して、そこに蓋をしたり、きちんと真正面からそのことに取り組むと言う姿勢を取らずにいると、大型の試練が来ると、どうしていいか分からず、耐えきれなくなり精神的崩壊に至ることもあります。

わたしはこの日々のトラブルを、自分に向かって投げられてくるボールと考えるといいのではないかと考えています。わたしたちがそのボールと向き合わず、こちらのコートにそれが投げられても、ちゃんと両手で受け止めるのではなくて、片手で適当に取ろうとしたり、わざとボールをキャッチせず、ミスしてころころと転がしたりすることを、私達は日々してはいないでしょうか。「あ、このボール汚なそうだ」とか思うと、取るふりをして見逃したり、「あ、何だか投げられたボールは、早い速度なので、キャッチすると痛いだろうな」とか思ってわざと見送ったり、そういう人生態度、姿勢が、その後の人生の対処の仕方に大きな影響を及ぼすのです。これは私達が問題に対して、斜めに構えて、向こうのボールの投げ方によって、あるいはその日の気分でその投げられたボールの処置をしている結果です。

でも実はこう言う生き方をしていると、トラブルから逃れられるのではないかと言うのは、間違いだと思います。かえってそのような問題回避主義的な生き方は、いつもどこかで不満や、不安が募っていて、だから精神的に不安定な心を抱えつつ生きて行くようになります。それではどうしたらいつ、なんどき、何が起こっても、精神的にぺっちゃんこにへこんで、起き上がれなくなるのではなく、その中でも、さっそうと立ち上がって歩める人となるのでしょうか。私はそのことに対して、ボールのたとえを使うと、ボールをまずきちんと見据えて、受け止めることができる人だと思います。

「受け止める」と言うと、「受け入れる」ことだと勘違いする人がいます。でも実は受け止めると受け入れるとは違うんです。「受け入れる」というのは一段ハードルが高い規準です。これは誰もができるわけではありません。しかし「受け止める」というのは、どんな人にでもできることなのです。だってただ投げられてくるボールを拒まずに、一旦自分の手に抱え込むだけだからです。その後の選択は自由なのです。そのボールをずっと抱え込んで、そのボールをどういう風に取り扱おうかと、時間をかけて考えることもできます。あるいは、投げてくれた相手に返す選択もできます。もしくはこのボールは自分が受け入れるには適切ではないと思ったら、そのボールを掴んでいた手を離して、ボールを手から落とし、転がしてもOKなのです。ただ私達は自分に向かって投げられるボールに、背を向けず、正面に立ってしっかり受け止めることなのです。これだけで私達は随分変わってきます。それはわたしたちが、自分に迫って来るものを拒まずに、受け止めようと覚悟して、意識してそうするからです。そういう訓練をしていくうちに、わたしたちは何が自分の人生に訪れても、パニックになることはなく、ひとまず「受け止める」という練習を日々しているので、いったんその問題を、自分のモノとして引き受けると言うスタンスをとれます。そうすると、今まで恐れていたもの、世間でいわゆる不幸といわれること、苦難といわれることでも、ちゃんと自分の心で受け止める決心をしているので、すぐ決着をつけなければとあわてることなく、落ち着いてひとまず自分の中に取り込むことができます。そうすることにより心の中でのひどい葛藤、つまり恐怖感、精神的苦痛、無力感、絶望感、孤立感との戦いに、悶々と苛まれることから解放されて、平安な心で対処することができます。

新約聖書ピリピ4章6節と7節にこのようなことが書かれています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人の全ての考えにまさる神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ここでは私達がしなければならないことが明白にされています。それは何事においても思い煩わないことなのです。かえってその重荷を神に祈りを通して知っていただきなさいと命じられています。これが私達のやるべき行いであり、それをすることによって、わたしたちに神の平安がいただけると言う保証と約束がされています。それだけでなく、大きなことだけでなくちっちゃなことにもすぐに翻弄されてしまう私達の心を、神様がイエス様にあって守ってくださると明言してくださっています。何という励ましでしょうか。わたしたちのこの移ろいやすい心、心配と不安がまたたくまに心を支配するような弱い私達の心を、神様ご自身が守ってくださると約束してくださっているのです。

さて最後にもう一つ、受け止めるという訓練は対人関係にも適用できることをお知らせしたいと思います。相手が批判してきたとき、私達はつい防御構えの姿勢をとり、その批判を打ち返そうとします。または打ち負かそうとするかもしれません。でもそれは私達が本能的に、相手の言ったことに同意しなければならないかもしれないと言う恐れから出る反応なのです。でもわたしたちがその時に相手からの批判を「受け入れなければならない」と思ってしまうから、防御心が出て来ると気づいたらどうでしょうか。何でかと言うと、「受け入れる」ことは「同意する」ことと通じるんです。だから私達は屈服させられるような気がして、反発感が芽生え、素直に人の批判を「受け入れる」ことが、できなくなるのです。しかしわたしたちはここでも「受け入れる」ことと「受け止める」ことを区別しなければなりません。「受け止める」とは相手の批判に同意できなくとも、腹が立っても、いったんは相手の言葉をとらえてあげる、すなわち相手の言うことに耳を傾けてみることです。そのうえでその人の批判に同意するかどうか、つまり受け入れるかどうか、その批判が正当か不当かを見極め、対応すればよいのです。

どうでしょうか。「受け止める」ということを知ることは、とても有益だとは思いませんか。

 

第32回:私達の中に潜んでいる思い込みへの対処法

思い込みは、わたしたちがよくやってしまうことです。なぜわたしたちが割にたやすく思い込みをしがちかというと、わたしたちは3つの要素に耐えずさらされているからです。

第一は、私達は、他者の意見に結構左右されてしまう傾向があるために、彼らの意見を取り入れ、そのためその状況をこうではないかと思い込むことです。旧約聖書にはダビデのお話しが出て来ます(サムエル記上17章)。ダビデは敵であった巨人のゴリアテと戦う時に、まだ少年でした。それで王様御自身が「お前はまだ若造だ。戦いに出たこともないお前が、ましてやプロのプロである戦士と戦えるなんて思っているのか。しかもお前より何十倍も力も背丈もあるゴリアテと戦うなんて絶対無理に決まっている」と言われました。ゴリアテは2メートル40センチもあった巨人だと言われています。しかもゴリアテはちゃんと武装もしています。そんな巨人をまじかに見ると、王様の言ったことが本当に思えてきます。そして王様と言う他者の言うことを本気で聞いてしまうと、その意見に影響を受けて、「それもそうだ。自分のような者が勝てるはずはない」と考え、戦う決意が揺れて、「やっぱり辞めておこう」という結論に達したかもしれません。確かに、もしダビデが王様の意見に耳を傾けていたら、石投げでゴリアテを倒したダビデの偉業、神様のみに信頼を置いて戦ったこの勇敢なダビデのお話しは、聖書の有名なお話しとして後世には残らなかったわけです。またこの事件を通してダビデは戦士たちの長となり、一躍サウル王より有名になり、人気が出て、サウル王の嫉妬を買うことになります。そしてダビデの運命は、ただの貧しい羊飼いという職業を遥かに超えた、王様として選抜された運命の人であったことが、段々と明らかになってきます。確かにダビデが神の目に適った人であったことは、この事件からもわかります。皆がゴリアテを恐れて身震いしていた時、ダビデだけが、ゴリアテに対する思い込みを全く持たなかったことから、常識では不可能な敵に、勝利を収めることができるようになったからです。

第2は思い込みは、私達の過去に学んだ経験を、私達が現在の状況に当てはめることから起きます。これは私達の過去の経験から、今回もこうなる「だろう」という思い込みをしがちだからです。自分の経験からこうなるだろうと安易に断定し、判断してしまっていると、本当の物が見えて来なくなります。ある高校生が廊下で先生にすれ違ったとき、「おはようございます」と挨拶したのに、その先生は彼の挨拶に全く答えず通り過ぎて行ったということから、彼は「この先生は僕のこと好きじゃないんだ」という結論をくだしました。これは典型的な思い込みです。この先生はもしかして学校に来る前に、奥さんと喧嘩をしたので、気持ちがむしゃくしゃしていて、挨拶などする余裕がなかったのかもしれません。あるいはその後予定されている保護者との面談のことで、頭がいっぱいになっていて、彼の挨拶に気付けなかったのかもしれません。それともこの高校生の挨拶の声が小さすぎて、この先生には聞き取れなかっただけかもしれないのです。でもこの高校生がこの先生は自分のことを嫌いだと思い込んだのは、彼の過去に原因があるからでした。彼のお父さんはとても気難しい人で、気に入らないことがあると、子供である彼に怒鳴りこそしませんでしたが、むっつり無視を決めて、彼が何を話しかけても黙りこくって、返答しないのです。数日してやっとお父さんの機嫌がなおってから、ようやく会話が再スタートするという感じで、彼は自分のお父さんが自分のことを好きでないから、このように自分に嫌な思いをさせるんだろうとずっと思っていました。それでこの過去の経験から、彼は対人関係において、自分に注意を払わない人に対して、この人は自分を嫌っている「だろう」と判断していたのです。

第3は思い込みは、自分の直感や見た目の印象からこうだろうと決めつけて判断することもあります。これはネット上にあふれているアンチコメントが、そのたぐいではないでしょうか。匿名で自分の書いたことに責任を持たないでいいことが、誹謗中傷へと繋がっていきます。自分の勝手な思い込みや偏見を、誰にも知られないで、気軽に書き込みができるということから、やっている人がどれほどいるのでしょうか。目の前にいる人に向かって暴言は吐かないのに、匿名で自分は安全地帯にいながら、反射的に人を叩いて、立ち去ってしまう。自分の発言によって、事態がどう向かうか、無責任に発した言葉が当人をどれだけ傷つけ、果てはその人を自殺に追い込むような深刻な状況に、相手を追いやってしまうことなど、アンチコメントをする人達は、想像することさえしようとしません。ただ自分の思い込みに突き動かされて発言しています。もうひとつは、信仰を持っていない未信者の方が、クリスチャンに対して持つ誤解です。彼らは信仰とか信心というモノは、老人や弱者がすがるもので、単なる思い込みであると勘違いしています。神など存在しないけれど、存在すると思い込むことによって、自分の心の支えとしているというものです。これはクリスチャンに対する未信者の方の典型的な間違った固定観念ではないでしょうか。もっと言えば、彼らはクリスチャンが間違って思い込みをして、神という存在をつくりあげていると感じているかもしれませんが、信仰者は彼らの信仰も彼らの神も思い込みでも何でもなく、リアルであることを日々体験しています。逆に信仰を持っていない人が、クリスチャンをそのような目で見ること自体が、彼らの思い込みと言えるのではないでしょうか。

このように間違った思い込みは、その人の考えや行いを歪めさせてしまいます。それではいかにしたら、思い込み、特にマイナス思考の思い込みから解放されるでしょうか。まず第一の要素を考えてみましょう。人の意見に惑わされてしまうと、一番損をするのは当人自身なのです。私達の前に現れる人生のゴリアテがいかなるものであろうと、私達はそこから逃げることをせず、立ち向かい、戦っていかなければならないのに、心が萎えてしまうと、戦う気力が失せてしまうからです。しかし試練、困難、問題、トラブルは人生につきもので、それはいわば神様が私達に備えてくださった戦いなのです。救い出してくださる方は神様です。しかし私達も戦わなければいけないのです。しかし戦う前に、「ああ、できない」「私には向いていない」「ダメだ」「難しすぎる」「私の手に負えない」などという否定的で負の思い込みをしたとしたらどうでしょうか。そこで頓挫してしまいます。そんな時ダビデを思い出してみたらどうでしょうか。ダビデがやったように、思い込みを捨て去り、あてにならない人の意見に頼るのではなく、揺るぎない信頼を神様に置いて、主である神様に導きを求めて、このお方から力を与えられて、私達の前に登場するゴリアテにしっかり対峙して、解決しようとする意気込みと勇気が私達には必要です。それが私達の人生ではないでしょうか。

それでは第2と第3の要素を私達が取り入れてしまうとどうでしょうか。すなわち自分の過去の経験に頼り、先がどうなるかわからないのに、現在や将来のことを見越して、「。。。だろう」と思い込んでしまう間違いを犯してしまうことです。そうすると大事なことを見逃してしまうことがあります。またはこういう対応が過去に良い結果をもたらしたというその過去の経験に頼りすぎてしまうと、もしかしたらそれはその人にとっての心地よい安全地帯なのかもしれませんが、他のやり方をしてみようという気持ちを奪い、いつも同じことの繰り返しをするだけの人生になってしまいます。そこには失敗をするリスクを免れる益はあるかもしれませんが、反面進歩がなく、惰性的な人生に甘んじることに繋がるのではないでしょうか。それを避けるには、その「だろう」という考えを、まずは横に置くという作業を心の中でしていかなければなりません。

あるいは何の根拠もない直感や第一印象に頼って、こうだと思い込んでしまう第3の要素はどうでしょうか。そのような思い込みは偏見や誤解を自己に生じさせます。偏見や誤解があると、物事をあるがままに見えなくさせてしまい、その結果人生はもっと豊かであるはずなのに、自分自身でその視野をせばめてしまうことになります。もっと大きな世界が自分の思い込みを超えたところに広がっているのに、それを自分でせばめて窮屈にしているとしたら、何と勿体ないことでしょうか。自分の中にある偏見や誤解に気付いて、このような思い込みを改めようとするときに、私達は今まで体験することができなかった新しい発見が待っていることに気付くのです。そのような思い込みから解放されると、私達の中に冒険心と好奇心が育っていって、他者との違いを受け入れる柔軟さが養われるようになります。そしてそのことにより、私達は独りよがりにならず、人と共感する心が生まれ、隣人を自分のように愛する姿勢をとることができるようになると思います。

どうでしょうか。私達は何らかの思い込みを現在してはいないでしょうか。そこから一歩進んで、私達は思い込みは禁物だと言うことを、本当に確信しているでしょうか。

 

第31回:対人関係においての5つの選択

私達が生きていくうえで、人と付き合って行くことは避けられないことです。一番身近には家族がいますし、働いている人達は職場での人間関係の中で、一日の大半を過ごさねばなりません。また私達信仰者にとっては、教会の中での人間関係もあります。そのほかご近所の人たちや、知人、親戚の付き合いもありますし、自分が好きで始めた同じ趣味の人たちとの定期的な交わりや習い事で知り合った人たち、スポーツ仲間などなど、わたしたちはいつも誰かと関わって生活をしています。

その中で私達は5つの選択ができるというのです。あるライフコーチの方が教えてくれたことですが、知っておくと、とても役にたつと思うので、その5つの選択が何かを、私の意見なども入れて、まとめてみたいと思います。私達が一瞬一瞬どんな行動と態度をとるかは、私達の選択によるというのです。

まず第一の選択はいつも人を攻撃する機会を待つ態度。注意しないと罪を持って生まれて来た私達は、この選択を自動的にやってしまいます。このモードになると、私達はいとも簡単に人を責め、相手に不平を持ち、悪口を言いたくなり、相手を罰しようとします。この選択は一言でいうと人を裁く選択です。「私はこんなタイプではない」と断定できる人は、「誰でもいいからその人と一時間一緒に過ごしてみてください」とこのコーチは勧めます。「その一時間の間、一瞬足りとも、その人を裁くような思いが一度も頭をめぐらなかったことがあるでしょうか。」と彼女は聞きます。私達はいとも簡単に心の中で、人を裁く傾向を持っているのです。例えば私達の配偶者、子供、あるいは友人と一緒に食事をしたり、話したりしているとき、相手が携帯のメッセージを見ながら、注意を100%私達に向けなかったら、私達はどう感じるでしょうか。「相手は自分に随分失礼なことをしている、私の方が正しい」と感じるから、相手を裁きたくなると言うのです。そしてこのコーチは彼女とお母さんとの関係において、いつも自分が正しいと信じていたので、お母さんを裁いていたと打ち明けてくれました。彼女のお母さんは誇張して話す傾向があり、家族が集まってパーティーをしたときなども、「30人も家族が集まった」と人に吹聴する癖がありました。それで彼女はお母さんに向かって、「お母さん、30人じゃなくて、13人でしょう」と一々訂正していたというのです。自分が正しいので、お母さんに間違いを正してあげるのは、自分の責任だと思っていたというのです。自分が警察官になったように、いつもお母さんが真実を話すかどうか見張っていたそうです。でもいつか彼女のお兄さんにこう言われたそうです。「そんなことどうでもいいことだ」と。それでも彼女は「どうでもいいことではないでしょう。お母さんが間違っているんだから正すのは当然でしょ」と言い返したと言うのです。でもお兄さんは「じゃあ聞くけど、一体あなたはお母さんとの関係を大事にしようと思うのか、それともあなたの一番の関心は、自分が正しいことを証明しようとすることなのか」と言われてハッとしたというのです。つまりこの選択をしてしまうと、相手の悪い所しか目につかなくなるのです。

第2の選択は第一の選択とまるっきり真逆で、批判を相手にではなく自分に向けてしまう選択の仕方。自分に自信がなく、人に拒絶されること、人を失望させること、失敗することを恐れてしまい、いつも人の評価を気にして、簡単に自分の方が折れて、人の言いなりになったりする傾向がこの選択にはあります。「誰も自分のことなど気にかけてくれない、誰も自分のこと愛してはくれない、自分には何の能力も取り柄もない」と自分を卑下して見てしまう選択です。これはDV(家庭内暴力)を受けている人が、取りがちな選択です。自分が悪くはないのに、相手が暴力を仕掛けてくるのは、自分に何か非があるからだと考えてしまい、服従してしまうのです。しかしこれは歪んだ自分への評価です。ローマの信徒への手紙には、このことに対して適切な助言がされています。「私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:3)。すなわち思い上がることもなく、自己卑下することもなく、神様の私達を見る目をもって、自分を客観的に正しく評価するようにと命じています。そうしないと、私達はいとも簡単に、第1の選択で人を裁いたかと思うと、今度は物事がうまくいかなくなると、その正反対な方向へ走り、自分自身を責め、その結果自分に良い所が見い出せなくなり、優柔不断になり、自分で決断することを回避してしまうようになります。自分で自分の行動に責任を持つことをせず、人に任せてしまい、その結果、人間関係において、相手と対等な位置に立つことを放棄する選択をしてしまいます。

第3の選択は保留する選択。最初の二つのネガティブな選択の悪循環から解放されるために、一段階上がったレベルがこの選択と言えるのではないでしょうか。それは保留するという選択です。この選択法は、第一の選択のようにすぐに黒白をつけて人を裁くのではなく、そういう否定的な結論を出すことを一時保留してみる選択。自分の相手に下す判断や決断を一時停止して、深呼吸して自分が何を考えているのか、思い巡らしてみること。これはとても大切な選択です。衝動的な人はその時の気分に左右されて、間違った選択をすることが多いですし、人に対してもすぐに裁いたりしてしまうのですが、一呼吸置いて、すぐに結論を出そうとしないで、相手に対して分からないことは、保留して見る選択。そうして時間を置くと、自分の相手に対して持っていた最初の印象が間違っていることに気付くことが往々にしてあります。これは実際にあったお話しですが、ある国で小学生の男の子がいつも始業時間に遅れて来るのです。担当の先生は、彼が教室に入るやいなや、その罰として、定規でバシッと彼の手を叩くことをずっとしておりました。ある日、この先生は用事があって、少し遅れて学校に来ました。その途中で彼はこの少年がリヤカーに病気の母親を載せて、そのリヤカーを押しながらどこかへ行くのを見かけたのです。ハッとしてこの先生はこの少年に問いただしました。するとこの少年は病気の母親を、自分が学校に行っている間世話してくれる叔母さんの家に、毎朝連れて行っていたというのです。そんな事情も考慮せず、勝手に彼は寝坊して毎朝学校に遅れて来たと判断して、毎朝この少年に罰を与えていたということに気付いて、この先生は彼に心から誤ったそうです。

第4の選択は、人との関わりの中で、相手に焦点をあてるのではなく、自分を知る機会とする選択をすること。つまり自分のやろうとすることを吟味し、「何故自分はそういう行動に出たのか」と、自分自身を虫眼鏡で見るように、深く探ってみること。そのようにして自分自身が誰であるか気付くことを学ぶのです。すると私達は人との関係の中で、自分が何者であるか、だんだん理解できるようになります。自分が何を好み、何を欲し、どこに自分の境界線を設けているのか知っていけるのです。そのプロセスの中で、私達は自分自身をケアすることを学び、第2の選択のような人に決断してもらうことを拒否し、自分で自分のやったことに責任をとる行動をとることができるようになります。その結果私達は人間的に成長し、もっと自分に対して自由になっていきます。そして自分が誰であるか恐れずに受け止められると、自分の権利や、自分が欲していること、自分が相手にしてほしくないことを、きちんと主張することができるようになります。

第5の選択は人との繋がりを求める選択です。相手に対する思いやりと相手を理解しようとする選択です。自分の中にあるエゴを捨てて、相手に耳を傾ける事を意識的にする決断です。それは相手の立場になって考える事を意味します。アブラハム・リンカーンはこう言いました。「わたしはあの人が嫌いだ。だからあの人をもっと知るように努力しなければならない」と。つまり自分をまず置いておいて、相手の観点から物事を考え、また違いを受け入れる柔軟性と寛容さを持ち合わせる努力をする覚悟を持つ必要がこの選択にはあります。そのようにして自分と関わりのある人と結びついていこうとする選択です。

私達は生きて行くうえで、この5つの選択をしながら人と関わっているのです。ただ意識して選択するのと、惰性で又習慣的にいつも同じパターンの選択をしているのでは、雲泥の差が出て来ます。特に私達が無意識のうちに否定的パターンの選択をしていることが多いことに気付くことができたとしたら、それは私達の人間としての成長を妨げた選択をしていると気づけて、そのような選択をすることを避けることができるようになるので、この5つの選択肢があることを知るのは、とても有益だと思います。アウシュヴィッツ収容所の生存者で精神科医そして心理学者でもあったビクトール・フランクル氏はこう言いました。「あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である」と。と言うことはつまるところすべて人生でどういう選択をするかは、私達の態度にかかっていると言うのです。それを選ぶ力が私達に与えられているのです。何という大きな力が私達に与えられているのでしょうか。これを聖書では自由意志と呼んでいます。これは神様が人間にお与えくださった一番大きな贈り物です。創造主である神様が被造物である人間を強制的に、神様に従わせることもできましたが、神様はそうされませんでした。私達が自由意志を持って自分で神様を信じ、従って行くことを選ぶ自由をお与えになりました。

同様に私達がどのような態度で相手に接するのか、それを選ぶ自由が私達には与えられています。第一の選択、それは人を裁く選択、第2の選択は自分に自信が持てない結果、内向的になり、自分を責め裁く選択、第3の選択、人とのやり取りで、相手が自分を傷つけたり、自分のことを誤解したとしても、その人のことをすぐに切り捨てようとはせず、まずは相手を裁いたり攻撃したりする結論を出さずに、一端保留して、もう少し様子を見てから人間関係を判断しようとする選択、第4の選択は、様々な出来事を通して、自分自身を知る機会とする選択、そして最後の第5の選択は、自分に関わっている相手を信じて、相手の最善のために自分が出来ることをするという選択。私達はこの5つの選択を知り、自分と関わっていく人に対して、一回一回の自分の行動がこの世界をほんの少しでも良い世界に変えることのできる良い選択をしていけばどうなるでしょうか。その一つの態度、一つの行動が相手に影響を与え、その人も同様に他の人に良い選択をしていくことを学び、そのようにして、徐々に私達の周りが変えられていくきっかけが生まれるかもしれません。そのきっかけを、私達から始める用意があるでしょうか。

 

 

第30回:偶像の神様対真の神様

ヨブ記を読んで気が付かされたことがあります。それは何であるかというと、そこに出て来る登場人物が、それぞれ自分の頭で作り上げた神様を神様だと思い、その神様の概念に従って、発言しているということです。

まずヨブの妻は、非常に現実的に、ヨブに次々に起こった災難を見て、「今まで忠実に神に仕えて来たって、何の意味もなかったじゃないの。神はあなたが考えているほど、あなたのこと、あなたの幸せなんか心にかけていないのよ。そんな神様を信じたって何になるの。神を呪って、こんな惨めな人生に終止符を打った方がいいわよ」という結論を下しました。ここから彼女の考えていた神は、非常に人間的な神であり、私達が誠実に尽くせば、その見返りが神から私達にも及ぶというそういう神でした。英語圏では「あなたがわたしの背中を掻いてくれたら、わたしもあなたの背中を掻いてあげる」ということわざがあります。すなわち相手が自分を助けることを条件として、自分も相手を助けるという意味ですが、この考えが人間の世界にすごく浸透していて、ヨブの妻は自分でも気づかないうちに、この考え方を神にもあてはめていました。ヨブは誠実に、真摯になって神を畏れ、敬い、正しいことをしてきたので、神は祝福をもって彼に報いることは、常識であると。そんな基本的なことも守れないような神は、神と呼ぶにはふさわしくない。そしてそんな人生は生きる価値がないとヨブの妻は考えたのです。これは未信者の人たちの考える神概念かもしれませんが、私達クリスチャンもはっきりこんな風な考え方を、口にこそしないまでも、実は心のどこかにこんな神様に対する考え方をしまってはいないでしょうか。

実はわたしにもこんな考え方があります。聖書に「主を畏れる人には何も欠けることがない… そして主に求める人には良いものに欠けることがない」(詩編34:10、11共同訳)とあります。わたしも主人も共に神に献身しており、自分たちの人生を神の働きのために用いていただこうと決心して、二人でその道を歩んで来ました。でもその中で、非常に理不尽なことが、私達の過去の人生に何度も起こりました。そしていまだに未解決の家族に対する深い問題を抱えながら生きていますが、わたしはそんな人生を振り返って、つい神様に愚痴が出ます。「私達は犠牲を払って、あなたに仕えて来たではありませんか。なぜこの約束がわたしの人生に、家族に実現しないのですか」と。つまりわたしは、聖書の約束と自分の人生にギャップを感じて、その結果ヨブの妻と同じような思考パターンになってしまっているのです。

次にヨブの友人たちの持っている神概念はどうでしょうか。一言で言えば、神様はこの世を、因果応報の原理で回しているというものです。因果応報とは、人は必ず自分のしたことにふさわしい報いを受けるということ。良いことをした人はその報いを受け、悪いことをした人は罰をうけるということ。この因果応報原理によると、ヨブが今苦しんでいるという事実は、それが起きた原因があるからだと。原因があって結果がある因果関係によって、つまりヨブに原因があってこれが起きているということ。友人達はヨブの苦難が突然襲ったのは、ヨブのせいであり、ヨブは犯して来た罪の罰の報いを神から受けているためだと。だからヨブの苦難の解決法は、ヨブが自分の罪を神に告白して赦してもらうこと。そうすることにより初めて、ヨブに癒しと回復が戻るというものです。確かに「人は自分が撒くものを自ら刈り取るようになる」という法則は、大方人の人生に適用される真理ではありますが、彼らの問題はこの原則しか神様はこの世界に通用させていないという狭い神概念でした。しかしこの世界に起こる現象を全て善と悪に真っ二つに分断するこの考え方は、あまりにもシンプルすぎます。彼らの問題は苦難は常に罪の結果であると主張しているところにありました。しかし現実に善人が、他人が犯した罪のために苦しむことは、いくらでもあります。それなのに苦難は罪の結果だという一点張りで、それで、この3人は自分達は神を弁護していると勘違いしていました。しかし神様が登場したとき、神様ははっきりと、彼らは神様について真実を語っていない、神様について偽りを並べ立てていると言われて、神様から叱責をうけ、その罪の贖いをするように命じられました。確かに旧約聖書の時代には、神様に従えば祝福され、従わなかったら呪われるという祝福と呪いの法則が存在していました。しかしこのヨブ記はその従来の教えに反することが描かれており、ここでは苦難は常に罪の結果であるとしか考えないのは、神の性質に対する挑戦だと神御自身が明白にしてくださいました。それは友人達が苦難を別の目的のために、神様が用いることもあるという可能性を排除していたからです。

ではヨブはどうだったのでしょうか。私達がとってしまいがちなこの二つの神に対する考え方は、正しくないということを、彼は悟っていました。だから妻に対しては、「主は与え、主は取られる」お方。そして「私達は幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならない」と言って、私達の人生に起こるどんなことも、主が主権を持って決めるのだから、私達はそれを善であれ、悪であれ受容しなければならないと言って、諭します。

友人たちに対しては、その時代の人々が持っている神の概念と、自分が体験していることが一致しない、自分は潔白である、この災難は自分が犯した罪のため下った罰ではないことを知っていながら、身に覚えのない告発を受けたときに、そのオーソドックスな神概念を振りかざして論争して来る友人たちに、その代わりとなる神概念を持ち出して反論する力が自分には無いことに愕然としました。そしてそこからヨブの精神的苦悩は極限に達していきます。神が友人たちの伝統的な教えに賛同して、沈黙していらっしゃる、自分に背をむけている、主との交わりが断たれているというところで、彼の苦しみが耐えられないものとなりました。

さてそれでは、神様はどのようにして、ご自分をヨブに現してくださったでしょう。「あんたの苦しみはあんたの言うように、あんたの罪から出たもんじゃ決してないんだ。あんたは正しいんだよ」と言ってヨブを擁護する代わりに、神はまったく今の状況と関係ないような事柄を持ち出してきます。それは神は創造主なる偉大な神であるということです。イザヤ書に「私の思いはあなたたちの思いを高く超えている」(イザヤ55:9b)と神様は仰っています。人間のレベルの公平さと神との公平さは別のものだということを教えておられます。イエス様のブドウ園の労働者の譬え〔マタイ20:1-16〕はそのことを見事に表しています。ここでは人間の一般常識でありえないことが起きているのです。ご主人はブドウ園で働く労働者を雇いに出かけます。一日の間で様々な時間帯で労働者を雇います。早朝組、朝9時組、昼12時組、午後3時組、午後5時組。労働終了時間の午後6時になり、一日の賃金を支払う時間になりました。主人は午後5時組の者達から順番に賃金を支払いました。ところが賃金の額は早朝組から午後5時組に至るまで皆一律1デナリだったのです。人間的に考えるなら1時間しか働かなかった人と12時間働いた人つまり、早朝の人はその12倍で12デナリ、9時の人は9デナリ、12時の人は6デナリ、3時の人は3デナリ、そして最後に1時間働いた人は1デナリが公正な賃金の支払い方とは思わないでしょうか。炎天下の中でその暑さに辛抱しながら長時間労苦した人もたった1デナリです。でもこれは実は早朝働いた人に、主人が約束した額でした。9時に働いた人以降はその額は知らされませんでした。「ふさわしい賃金を払ってやろう」という約束だけでした。ただご主人が時間をずらしてどんどん人を雇っているのを見ると、少ししか働かないで同じ額を貰っていい目をみている人に比べると、大きな犠牲を払って働いた人が、大きい報酬を得るのが当然という人間の測りで物事を考える間違いを私達はしてしまいます。イエス様はその間違いをここで指摘しているのです。イエス様は私達の考えるような平等さ、公平さで私達を取り扱っているのではないということ。かえって神様の気前の良さと恵みの豊かさをこの譬えで教えようとしているのです。

ということで、神がヨブに気付かせたかったことは何でしょうか。それは神の義よりも自分の正しさに頼って、自分にこういうことが起こるなんて、神は不正な方であると神に抗議するのは間違っていると。神は人間が自分の状況に応じて、勝手に神とはこういうものだ、このようであらねばならないと、自分の頭で神をこしらえてしまい、神をその自分の造った箱の中に押し込めることことはできないことを、教えようとされたからではないでしょうか。そういうことをしているとしたら、私達は既に偶像の罪を犯しているのであり、本物の自由にそして柔軟に働いていらっしゃる創造主なる神とは、異なった自分の造った偶像の神を、神として拝んでしまうという、恐ろしい間違いを私達は犯しているのであるとの、神からの忠告のような気がします。

つまり説明することのできないような苦難が、私達に到来したとしても、その理由を私達が探ろうすることは、益にはならないということ。それを探るよりも、その問題を遥かに超えて、全てを牛耳っていらっしゃる神に、私達は降参して、その神に自分の人生、将来を委ねることができるか。そこがカギとなるのではないでしょうか。そして私達が知る由もない、この世界の初めから終わりまで何が起こるか、全てを把握していらっしゃる神が、ご計画なさったことは、私達にとっては悪だと感じることも、また自分の周りに起こっていること、世界で起こっていることも、悪にしか見えなかったとしても、最終的には全てを良きに為してくださるお方が神様であるということを、詰まるところ私達が信じ、信頼できるかということではないかと思います。

不可解なこと、理解できないこと、神に「どうして?」と尋ねたくなるときにこそ、これが全知全能の神、神が神であられる理由だということの証明だと、私達がへりくだって神を神として認めて、拝し、あがめ、仕えていくときに、私達は自分の頭でこしらえた偶像の神ではなく、聖書で語られている真の神を本当の意味で悟る知恵が、与えられていくのではないでしょうか。私達は自分がこうあってほしいという神様を拝しているでしょうか。それとも真の創造主なる神様を拝しているでしょうか。

 

第29回:今を生きる

私達は生きて行くうえで必要な知恵を、様々な良書に触れて、そこからたくさんのことを学んでいくことで獲得することができます。また昔の人々の言い伝えや親からのアドバイスなども随分参考になります。しかしやはり一番の良いお手本は、私達が実際人生で自ら体得した自分の経験ではないでしょうか。自分が人生の中で学んだことは、後の人生に必ず良い意味で、生かされていく貴重なレッスンになると思います。

こういうことをしてよかったなと、自分のやって来たことが、社会や会社や他の人のために益になったことがあったなら、それらを誇りに思い、いつか機会があれば、そのような体験を生かして、またチャレンジできることに、自分が用いられたらいいなと思えることもあります。しかし、どっちかというと、自分が失敗して痛い目にあったこと、また後悔して今思い出しても、なぜあんなことをしてしまったのかと繰り返し考えてしまうようなことが、私達の心に突きささり、その思い出が深く残って、もう二度とそんなことはしまい、という決心を私達に固くしてくれ、それが自分の人生の軌道修正につながることもよくあるのではないでしょうか。

時には過去があまり思い出したくないようなネガティブな事ばかりであったとき、今度は私達は将来に自分の希望を託して生きようとします。過去にとらわれすぎると、自分の嫌だった思い出がよみがえってきて、自分はこんなことしかできない人間だって、そこから一歩進んで行こうとする勇気がなくなってしまうので、なるべく昔のことを回顧したり、振り返ったりせず、がむしゃらに前を向いて進んでいこうと、過去の嫌なことに目をつぶり、その反動として未来、未来と自分を叱咤激励して、前に進もうとする人たちも案外と沢山いるかもしれません。

聖書にもパウロが「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(ピリピ人への手紙3:13)と言っているので、何だか聖書でさえ過去のことを忘れて、前向きにだけ生きていれば良いと奨励しているようにも受け取られます。しかしパウロの人生を見て見ると、パウロは決してうしろのものを忘れて、その記憶を無くしたわけではないことがわかります。パウロの過去を振り返ってみると、生粋のへブル人で、律法についてはパリサイ人であり、その義については非の打ち所がないとまで断言できるほど、イスラエル人としても、またユダヤ教徒としても、非常に優れた経歴を持っていたので、その栄光に酔いしれて生きることもできました。しかし彼はイエス様を知ったときに、これらのものは「わたしの主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピの手紙3:8)と言っています。とパウロは肉的には誇れるものがたくさんありましたが、それと同時に彼は過去に、「神を汚すもの、迫害する者、暴力をふるう者でした。」とも回想しています。(1テモテ1:13)。ということは、負の過去についても、パウロは決して忘れることはなく、むしろ自分は「罪人のかしら」(1テモテ1:15)なんであるとまで言って、実はキリストから救っていただけるような人物ではなく、かえってキリストの弟子達の信者達を激しく迫害し、家族を引き離し、教会を破壊するほど大きな痛手を負わせて害を与えて来たことを覚えていました。でもパウロはそれだから尚一層神の憐れみを受けた者、罪を赦された者であることを、その負の過去から彼はしかと学び、それゆえになおさらイエス様の十字架の愛がよりよくわかる者となり、その神様の驚くべき人間への愛を教えるため、新約聖書の書簡を何冊も書き上げて、私達信仰者に多大な霊的資産を遺してくれたのです。ですからここからパウロが言っている「うしろのものを忘れ」とは、文字通り記憶を消し去ることではなく、どんな過去があったとしても、その過去に今の生き方が囚われてはならないということです。

それでは未来のために生きる生き方はどうでしょうか。今日という日は、明日を成功させるための準備期間でしかなく、人生で一番大事なのは、明日に備えることだという考え方です。しかし人生とは明日をよりよく生きるためにしか存在しないのでしょうか。現実がうまくいっていないときは、つい現実逃避をして、明日に希望を託して、自分自身を騙しながら、「明日に向かって生きればいい」と、自分に言い聞かせて生きようとする間違いを、私達は犯しやすいものです。しかしコロナ禍で感謝すべきは、明日に希望を託して生きることの空しさを私達に教えてくれたことです。私達はこのコロナ禍の中で、不便さ、不安さ、不確かさを1年半以上体験して、将来に対して「こうこうこうしたい」という期待と予測ができなくなるという現実に遭遇して、未来はいつも明るいんだという楽観的な錯覚が、見事に崩れさってしまう経験をしてきました。未来だって、結局は私達がいくら頑張って将来の人生設計を計画したところで、その通りには進まないものであり、私達の前に何が立ちはだかるか、そのことによっていかに速やかに、私達の夢や希望が叶わなくなるものであるかを、このコロナ禍を通して、身を持って実感させられた方も何人もいらっしゃると思います。そして結果的に、人間は所詮無力で弱い存在であるという事実を認めざるをえなくなったのが、コロナ禍ではなかったかと思います。

一言で言えば、過去も未来も私達が焦点を当てるものではないということです。なぜなら過去は過ぎ去り、どんなに後悔しても、やり直しは不可能です。過去が「ヒストリー」と呼ばれる所以はここにあります。そして未来は私達がコントロールできないこと、また何が起こるか私達にはわからないもの。だから「ミステリー」と呼ばれます。ということで、私達がコントロールすることのできることは、「現在」、「今」しかないのです。面白いことに英語では現在を「プレゼント」と言います。つまり現在とは文字通りプレゼント、あるいはギフト、すなわち「神様からの贈り物」なのです。神様は、私達が過去にやったことに振り回されて、あれこれ考えて引きずられてしまうことを望んではおられないし、また明日の事を色々心配して心が煩わらされることをも望んでおられません。そうではなく、今、現在、刻々と過ぎる「今日一日」を、神様は私達一人一人にプレゼントとして与えてくださっているのです。

私達の人生はちょうど自動車の運転をしているようなものです。私達はいつも正面一面に取り付けられている窓ガラスを通して、正面を見ながら前に向かって車を運転し走らせています。しかし時々、私達は後ろにも注意を払わねばならず、後ろを確認するために、背後を見るときはバックミラーを使います。特に車線変更しようとするときには、バックミラーを見ながら後ろの車との車間距離を判断して、安全確認をしてから、車線を変えます。これは人生でも言えることで、新しいことに取り掛かろうとしたり、今までの歩みと違う生き方をしようとするとき、やはり私達は自分の過去を少し振り返って、人生進路を変えるかどうか確かめる作業をします。ということで基本的には私達はいつも正面を見ながら、前を目指して進んでいますが、後ろを全く無視して生きるかというと、そういうこともできず、前を向いて運転をしてはいますが、後ろもバックミラーを利用して、時折ちらちらと見ながら、人生を操縦していくのです。

ではどのようにしたら、刻々と移りすぎる「今」という時間を捕える機会を、自分で訓練することができるでしょうか。実は時間は容赦なく過ぎて行きますが、だからと言って水のように私達の手に捕らえることができないわけではありません。この瞬間がどのように過ぎるのかを知りたいなら、たとえば信号待ちのときに、信号ばっかり見つめて、いつ信号が青に変わるのかとイライラして1-2分時を過ごすのではなく、その時間がまさに神様から与えられた「今」という時間を享受するときだと受け止めて、車の中から見える周りの景色に目を留めたり、道を歩いている様々な人々を観察したり、あるいはその時間、お祈りに神さまと交わる時間として使ったりすることができます。このように予期しないちっちゃな時間を無駄と考えるなら、私達は「今」をどう生きるかまだ学んではいないということでしょう。エレベーターを待ってる時間とか、シャワーを浴びている時とか、「今」を生きるとは、私達は一日の内に、余白の時間がほんのちょっと幾つか与えられていることにまず気付いて、その時間を自分のコントロール下において、意図的に何かに気付く時間にしてみるのです。主婦であれば、お茶を家族に出そうとお湯が沸くのを待っている数分間、あるいは野菜を切ったり、食器を洗ったり、家事をしていても、結構たくさん「今」を生きるとはどういうことかを体験する時間が、一日に何回もあることでしょう。そんなときふっとしばらくコンタクトを取っていなかった人のことが、思い出されるかもしれません。そしたら仕事が一段落したら、その人に連絡を取ってみることができます。あるいは家事は結構機械的にやれるので、その時間賛美の音楽をかけて、神様に自分の心を向ける賛美する時間へと用いることもできます。心にかかっている人達の執り成しの祈りをすることもできます。

いずれにせよ現在という時が神様から与えられた贈り物なら、一日の重さを、まず私達が感じ取り、「神様からまた今日も生かしていただいた、感謝!」という思いで一日をどのように有効に過ごすことができるか考えて、喜びと感謝の一日を過ごすことを意図的にやることではないでしょうか。「今日より若くなる日はありません。だから今日という日を、私の一番若い日として輝いて生きてゆきましょう」と渡辺和子氏が言っておられました。さて皆様の生き方は、「ヒストリー」である過去形に引きずられている生き方でしょうか。それとも「ミステリー」である未来を自分の力で解明しようと、自分の能力に過信して、自分で自分の人生を切り開いていこうとする自力な生き方でしょうか。それとも神様が与えてくださった「プレゼント」、「神からの贈り物」である今日の一日を感謝して受け取り、神に導かれ、神と共に歩む幸いを体験しながら、喜びのある一日を送っていらっしゃるでしょうか。

 

第28回:受けることと与えること

与えることと、受けること、両者を比較すると、人間的に見れば「与えるより受ける方が幸いである」と思ってしまいます。罪の性質を持っている私達は、自分を優先してしまい、自分が良い目をみること、自分に益となることを求める傾向があるからです。確かに、人から何かをもらったり、親切にしてもらうという厚意を受けることは、嬉しいことです。しかし反面、それによって、自分がその人に対して、負い目を感じることになるかもしれません。その人に対して、何か、お返しをしなければならないと感じてしまうこともあります。ですから一概には受けることがいいことであるとも言えない面もあります。私達は与えてもらったあとのことを、どうしても考えてしまうからです。特にお返しの文化のある日本では、人に何かをもらったらただで貰いっぱなしにしておけないということで、それでは何を買って与えた人にお返ししたらいいのか、それ相応のものということで、結構煩わしい面もあります。何より人間の性質として、相手が親切にしてくれたということに対して、頭が上がらないとか、いつも感謝していなければならないとか、関係に不釣り合いが生じてしまい、対等に接することができないと考えてしまうと、自分の中にある自我がそういうことを嫌ってしまう心理状況も働くので、結構受けることはそんなにシンプルなことではないなあと思ってしまいます。

わたしはそう遠くない過去に、こんな体験をしました。その方もクリスチャンの方で、ご主人が亡くなったあと、なかなかその悲しみから立ち直れず、わたしは主人と一緒に、彼女の家を訪れ彼女のお話しを聞き、そして最後にはお祈りをして帰るというパターンを何回か続けていました。その方がある旧正月のときに、私達の家族にお菓子を渡したいから、彼女の家に取りに来てくれというメッセージが入りました。旧正月の時期は、身内や親戚、お友達やお世話になった方々に、クッキーや、飲み物や、果物の缶づめや、ドライフルーツ、干し肉、ミカンなどを贈答品として、お互いに交換し合う習慣があります。さて家に帰って来てから、彼女からいただいたものを開けてみてびっくりしました。殆どの品物が期限切れのものであったり、見た目にもいかがわしいちょっと気持ちが悪いものが入っていたり、そして最悪な事には、彼女の家族が半分以上食べて、隙間がスカスカに空いた箱にちょこっと残っていたお菓子まで入っていました。つまり残飯整理みたく、彼女が私達の家族にあげようとしたのは、そんなものだったのです。主人と二人で呆気に取られてしまいました。その方は貧困グループには属しておらず、富裕なご家族でした。だから猶更彼女がやった行為が信じられませんでした。自分達がいらないものなら捨てればいいのに、捨てる代わりに私達にそれを恵んでくれた。非常に私達のことをバカにされた気がして悲しくなりました。私達は経済的にはとても裕福な家庭とは言えませんが、それだからと言って、人がくれたものなら何でもかんでも喜んでもらうと、私達のことを勘違いしたのでしょうか。そういう行動が相手をどんな気持ちにさせるかということまで、考える心の余裕がなかったのでしょうか。それにしても私達をそのようにしか見てくれていないということに気付いた私達は、彼女と一線を引くことにしました。家族や親戚は自分では選べない神様から与えられた人たちですが、友達は自分の意志で選べます。彼女が私達のことをそんな風にしか考えていないのだったら、私達はこの方とこれから付き合っていく必要はないと感じました。

受ける人が卑屈になり、惨めになり、屈辱感を味わうなら、それは対等な関係の中で為された行為ではなく、ただの差別待遇であり、そこにパワープレイが働いています。また受け取ったときに、必要以上にすまながったり、オーバーに感謝を、与える人に示して、その人の御機嫌を取るような態度に出なくてはならないように、受け取る人に感じさせてしまう与え方は、神様の喜ばれる与え方ではないと思います。あくまでも対等な立場で与える行為、受ける行為が為されなければどこかが間違っています。なぜなら、お互い様で、時には与える側に立つこともあれば、受ける側に立つこともあるからです。

また面白いもので、他方与えるとはただ単に人に親切にしたいとか、人の役に立ちたいとか純粋な気持ちでしていると自分では思っていても、実は心の奥底を覗き見ると、実は受けることがあるから与えていることに気付くようになります。それは相手の人が喜んでくれ、それによって自分も満足感を得て、気持ちがよくなるからです。これは相手の出方によって私達の気持ちが変わることからも証明することができます。相手から何も見返りを期待しないと自分では思っているつもりでも、相手が感謝の気持ちを表さずに、当然のようにわたしのした親切を受け取るときに、なんだかがっかりする気持ちにならないでしょうか。下手をすると感謝を示さなかった相手に腹を立ててしまうようなことが起きてしまいます。そして自分の方が相手より徳があり、気前が良くて、良い人物だというプライドと優越感が、どこかにあるから、できるならいつも自分は与える側に立っていたい、と与えることに多くの喜びを見出す人は、逆の立場になるときに、うまく受ける側に立つことができなくなります。たとえば、元気な時に、献身的に、人のために尽くしてきた人、多くのものを、人に与えてきた人が、自分が年をとったり、病に伏して弱くなって、人からの助けを必要とするときに、素直に人の世話を受けることができない人になってしまうことがあるのです。

ということで、受けること、与えることの行為自体はシンプルかもしれませんが、その行為を通して、どのような心理が双方に働いているかというと、結構複雑で、当時者達の心の中には様々な駆け引きが意識的、無意識的に動いているという事実に驚かされます。

ところで「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉は、使徒言行録20:35で、パウロがイエス様が語られた言葉として記されています。なぜそうなのでしょうか。第一に、なんだかんだと言っても、やはり与えるという行為は、自己主義、利己主義に生きる傾向にある人間には、それを正す必要な行為だからではないでしょうか。ちょうど主イエスの生き方は、「与える」という一語に集約されるように、わたしたちが与えるという行為をするときに、私達は「むさぼり」の罪の縄目から解き放たれるのです。その縄目から解き放たれて、キリストの生き方である「与える」幸いを体験し、自由に生きることができるからです。ある金持ちの男が、イエス様に「永遠の命を受け継ぐには何をしたらいいでしょうか。」と尋ねた時、イエス様は何と言われたでしょうか(マルコ10:17-22)。彼が十戒を小さい時から守ってきたと自信をもってイエスさまに語ったとき、イエス様は、「あなたには欠けているものが一つある」と言われました。それは天に彼が宝を積んでいないことであり、積むためには、持っているものを売り払って、貧しい人々に施しをすることでした。しかしこの男は、多くの財産を持っていたため、イエス様の命じたことに従うことができず、悲しんで立ち去ったとあります。金銭に対する執着とむさぼりが彼にはあって、それから自由にならなければ、与える生き方への人生の方向転換ができないことをご存じであったイエスさまは、わざと大胆なチャレンジを彼にかけました。

第2の理由は、与えること自体に幸いが潜んでいるからです。「捧げる祝福」というものがあることを、イエス様は私達に教えようとしています。それはイエス様の人生の生き方であり、イエス様の弟子である私達も、捧げる人生が豊かな生き方に繋がることを、イエス様は知らせようとなさったのではないでしょうか。自分のためだけに人生を使っている生き方は虚しい生き方です。この富んだ男性も自分の人生には、何かが欠けていると感じていましたが、それが何か彼には気づくことができませんでした。イエス様はそれを見極めて、豊かな人生へと彼を招いてくださったのに、そちらへ移行することができませんでした。あまりにこの世の富を抱え過ぎていたため、それに縛られてしまって、それを捨て去ることができなくなってしまったのです。誰かがこう言いました。神様は私達が人生を生きる時に、自分の手を広げて生きることを望んでおられると。どんなものを与えられても、それを握りしめるのではなく、そっと自分の手の平に置いておくこと。いつ神様がそれを取り上げてもいいように、心と手をいつも広げておいて、必要なことに、必要なときに、必要な人に、私達が預かっている全てのものを使っていただく用意が「広げられた手」という言葉に象徴されています。それは要約すれば集める人生と散らす人生の違いでしょう。受ける人生とは集める人生であり、それは自分のために周りからさまざまなものを集めながら送る人生です。その集めたものがたとえ知恵や経験であったとしても、それが自分のためだけにしか使われなければ、私達は集める人生しか送ってこなかったことになります。反対に与える人生とは散らす人生であり、それは自分がもっているもの、それが金銭であり、才能であり、技術であり、持ち味であり、それを自分のモノだけにせず豊かに回りに撒いて行く人生です。ジェラール・シャンドリーという人はこんな言葉を遺しています。「一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである。」天才物理学者、アインシュタインも似たようなことを言っています。「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。」どうでしょうか。皆さんは与えることが幸いなことであることに賛同されますか。

 

第27回:慣れすぎてしまうことの弊害

慣れは怖い。コロナ禍でこのことをつくづく感じています。去年はじめコロナ感染者が数百人マレーシアで出たということを、聞いたとき皆びっくりして、感染者がそれ以上増えないように、SOPを遵守し、皆で一生懸命に感染者数を下げようと、団結して頑張ろうとしてきました。しかし既にそれから1年半が過ぎ、コロナ禍で様々な規制が敷かれ、私達の生活も家中心に回っている生活が長引くにつれて、コロナ感染拡大に関しても、それほど多大な関心と注意を払わなくなったような気がします。皮肉なことに、現在は去年の今頃とは格段の数の差があり、新規感染者が2万人くらいのところを行ったり来たりという驚異的な数字に跳ね上がっているにも関わらず、ショックを受けオドオドして動揺したりすることもさほどなく、割に淡々とこのことを受け止め、何事もなかったかのように、捉えてしまっている自分があります。

慣れるということは、すべて悪い意味を持っているわけではありません。新しい職場に入れば、そこで与えられる仕事に一日も早く慣れること、そして上司や同僚たちとうまくやっていくために、その雰囲気に慣れて、自分がどのようにそこで行動していけば、問題なくやっていけるのか掴む必要があります。それは学校でも同じことですし、いろいろな趣味のサークル、スポーツクラブなどでも同じだと思います。ということで、新しい環境に順応そして適応していくためには、慣れるということは大切な要素です。

しかし、他方慣れてくると、人間の心理としてそこに新鮮さを見出せず、惰性的になり、コロナの感染拡大に関することを最初にあげましたが、そのように無関心になる傾向があることも忘れてはならないことではないでしょうか。同じことが変わりもなく長く続くと、私達の心は麻痺してその慢性の出来事に対して、注意を払わなくなるということでしょうか。

コロナ禍でそのことに心を留めていかなければならないなあと、近頃感じています。そうでなければ猶更私達の生活は色あせて、つまらないものになり、退屈で閉塞感を覚え、無気力と無関心に一層拍車がかかるんではないでしょうか。人間の心と体は繋がっています。心が健全に保たれるためには、適度に体を動かすことは大切だとよく言われます。たとえばうつ病の人には、毎日外に出て歩くか、運動をするようにと、精神科医のお医者さんは強く勧めます。体を動かすことによって、精神面にいい影響を与える幸福ホルモンとも呼ばれているドーパミンやセラトニンという脳内物質がたくさん分泌されるからです。ですからこれは私達にもあてはまることで、巣ごもり生活状態に長く置かれている現在の私達も、極力体を動かすことを、一日に何回もして、心の健康をケアすることが必要です。

また心の持ち方も私達の気分を変えてくれる大きな要素ではないかと思います。毎日小さなことでも、感謝できることを見つけていく。そして慣れに甘んずるのではなく、何か昨日と違うことをやってみる、新しい何かを発見すること。それには観察力が必要ですし、積極的に人生に関わるという意識がなければなかなかできないことです。このことに関しては、私達は子供に学ぶことが多いにあるんではないかと思います。彼らは何事においても感動する心があります。そして素直に嬉しいことを体で現わすことができます。嬉しい時に手を叩いたり、スキップをしたり、飛び上がって喜んだり、体いっぱいに表現することを知っています。年を取るという事は、この感動する心を忘れることだと思います。感動することを見つけることができることは、人生を生き生きと生きる原動力となります。それがなければ、コロナ禍のように、外出もできず、家の中で大半を過ごさねばならない私達にとって、外部の出来事から私達をわくわくさせるようなものは何もないわけなので、必然的に外からではなく自分の内面からそれを見つけていく必要があるのです。それが何の変哲もない日々に色を添えるものではないでしょうか。それには私達の観察力と想像力、そして感動と感謝する心と新しいことにチャレンジする勇気が必要です。

これに関して興味深い聖書のお話しがあります。ある男性が池の回廊に陣取って長い年月暮らしていました。彼は病気を38年間も患っていました。この池の中で時折起こる奇跡に、自分も与かれば、弱ってもはや動くこともままならず、横たわっていることしかできないこの体から解放され癒されると考えて、そこから離れることなく、来る日も来る日もその奇跡が起こるのを待っていました。しかし同時に自分にその奇跡が起こるのは不可能だということも知っていました。なぜなら時折池の水が動いて波立つときに、その真っ最中に池に入った人が癒されるという言い伝えがあり、それに望みをかけて、池の周りに陣取って奇跡が起こるのを待っている病に侵されている人達が、たくさんその池のそばにいました。彼は、長年の病気で床に伏せっていたため、自分の力では到底その池に入ることはできませんでした。また彼の周りにいた人々も、我先に入ろうとするので、彼を助けてくれる人は誰もいませんでした。彼は自分には池に入るチャンスが0%であることを知っていました。そんな彼にイエス様が現れます。そしてイエス様の方から「癒されたいか?」と聞いてくださいます。ところが彼は何と答えたでしょうか。もし私達だったら、「もちろんです。癒されたいです」と答えるとは思いませんか。ところが彼はこう答えました。「主よ、水が動くときに、私を池の中に入れようと助けてくれる人は、ここには誰もいません。いつも他の人が先に入ってしまうのです。」「助けてくれる人がいない。だから自分は憐れな存在だ」とただ自己憐憫を表現したのです。つまり、彼自身自分の上に奇跡が起こることなど全然期待していませんでした。それならそれで諦めてどこかへ場所を移して、そこで彼のできることを探していけばよいのに、それもせず毎日何も起こらない場所で、昼も夜もそこに留まりつづけました。そこにいても何の変化も起こらないということは分かっていましたが、そこにいることにあまり慣れすぎていたため、ただ受け身でそこでじっと自分の人生が流れていくのを、ぼんやりと眺めていくことしかしませんでした。これは彼が慣れから惰性の生活にいつのまにか移行していったことを、顕著に表してくれる例だと思います。何も起こらないけれど、だからと言って、他の方法を見つける意欲もない。だからとどまり続ける。何という無気力で無関心な人生を、彼は長いこと送っていたことでしょうか。そんな彼をイエス様は憐れんで、彼が癒してくれとは言わなかったけれど、この慣れの生活から彼を引き上げて、癒しの世界へと導いてくださいました。自分の力では克服できなくてただ諦めていた彼に、実は彼は癒されることを心の奥底で願っていたことを知って、イエス様の方から癒してくださいました。しかしここでイエスは彼を癒す前に彼の信仰を試されました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じました。そのときに、「イエス様、それは不可能です。一人で起き上がることができないのです。」と彼は考えたかもしれません。人間的に考えたら不可能なことを言われたのですから。しかしこの言葉をイエス様からかけられたとき、何十年も惰性で生きてきた希望も夢も楽しみも喜びもない不自由な生活を送っていたこの男に、そこから脱出する方法は、イエスに対する信仰しかないという確信を呼び起こさせ、そのイエスの言葉に賭けてみようという気持ちに彼をさせました。そしてイエスの言葉に従って、起き上がる決心をしたときに、体に力がみなぎって癒される体験をしました。「今までとは全く違ったことをやってみる勇気がありますか。癒されたかったら私の言う言葉を信じて、私の言うとおりにしてみなさい」と語ってくれたイエスの言葉を聞いて信仰が生まれ、この惰性を打破する力が与えられました。

私達も時としてイエスさまが聖書を通して私達にチャレンジをしてくれると感じても、「やっぱり無理」とか「どうせダメ」とか言い訳をして、「このままでいた方が楽だ」と慣れから抜け出ることに対する抵抗があってなかなか新しいことに挑戦する力も気持ちも沸いてきません。危機という言葉は危険と機会の2つの言葉が混ざってできた言葉です。ということは私達が危険と感ずる今までやったことの無かった行為、行動の中には思いがけない機会、チャンスも含まれているということです。初代教会は教会がペンテコステにエルサレムに設立した後、殆どのクリスチャン達はエルサレムでの活動しか考えませんでした。厳しい迫害がエルサレムに起こって初めて、一か所で縮こまっていたクリスチャン達を、大宣教命令に押し出そうと迫害という方法でエルサレムの外に散らばされたクリスチャンは、そのようにして宣教を世界へと拡大して行くことができました。私達ももしかしたら私達のコンフォートゾーン(安全地帯)の中に留まっている限り見えて来ない自分の可能性が、今慣れてしまっている環境から、一歩踏み出すことにより、新しい自分の発見と、新しいことへ挑戦するきっかけとなるのではないでしょうか。どうでしょうか、慣れてしまった環境から一歩踏み出るということが億劫になってしまったら、それは私達が精神的に年をとったことを示すバロメーターでしょう。このコロナ禍の中で、私達ができる何かが果たしてあるでしょうか。

 

 第26回:弱さとの共存

「人間は宇宙に人を運ぶなどの偉大な能力を持っているが、同時に一ミリの一万分の一のウイルスに倒される弱さを持っている。コロナ禍の中で、「弱さ」を忘れ、「偉大さ」だけを見つめて生きてきた傲慢さに気付かされている」と大門義和先生は風韻のテーマ記事239号に書かれていました。確かにその通りだなあと思わされます。コロナ禍を通して、私達は多くのことを学ぶことができますが、その中でも弱さを知らされたということは、私達には大きな気づきであったのではないかなあと感じます。頑張れば努力すればそれ相応の結果が出るというこの世の価値観に、クリスチャンであっても迎合して、教会の働きでもそのような価値観のもとに頑張っていることが往々にしてあるのではないでしょうか。礼拝出席者が多く、礼拝堂も立派で、ダイナミックなカリスマ性のある牧師や教会指導者達のもとに、若い人達も沢山集っているいわゆる「成功」している教会を見ると、自分の教会には何が足りないのか、もっと魅力的なプログラムを構成して、人をたくさん集めなくてはダメとか、この世的なマネージメントのノーハウを学んで、いかにしたらもっと献金額を増やし、もっと効率的に、教会を運営していったら、教会が「繁栄」するのかと考え、焦ったり、努力や頑張りのレベルをあげたりしてしまう人間的な価値観で、私達はつい動いてしまいます。知らず知らずそのような空気が教会に蔓延してくると、そのように頑張っていない牧師、教会員達を批判したり、成果主義を問題にすると、教会の中に不満というオーラが漂い始めるようになります。

でも実はそれが人間のおごりであり、神と世界の関係を知らない愚かさを現わしていると言えるでしょう。私達にはどんなに頑張っても努力してもできないことが多くあること、人間の限界を知らされ、そして私達よりも大きい力に出会ったときに、無力感しか感じることのできない弱さを思い知らされます。予定通りに進めたいと思うこと自体に大きな落とし穴があります。自分の予定や世界の動きは管理できて当たり前という幻想を抱くことになりがちだからです。原発事故を巡って想定外という言葉が流行りましたが、そもそも私達の世界は、想定外こそ現実の世界であるということを忘れてはいけないと思います。この世界はいつもわけがわからないことだらけです。私達の信仰とは、わけのわからないことが起きる世界で、生きる勇気を生み出す力、想定外に対応する能力を発揮する力ではないでしょうか。

というのは強さと弱さは表裏一体で、いつ何時強さが弱さに代わることがあるからです。突然ガンを医者から告知されたり、交通事故にあって後遺症が残り働けなくなったり、生まれた子供が障害を持っていて、その子の面倒をこれから一生見なければならなくなったり、若年性認知症にかかり、家族の世話にならなければ、生きていけなくなったり。そして現在私達の心配することは、コロナに感染してしまい、それが重症化して病院で治療を受けなければならない羽目になってしまうということでしょうか。ということは、人間の共通する土台は、強さではなく弱さ、はかなさ、もろさではないかと思います。一瞬にして私達は自分がコントロールできない事態に陥り、それに対して自分の力では克服できないことに遭遇するチャンスを、いつも誰もが持っているからです。強さばかりを強調する価値観の社会に生きていると、人や社会の役に立たなくなり、かえって人に迷惑しかかけられない、人のお荷物にしかならない生き方しかできなくなったとき、その人の価値はなくなり、周りや社会に大きな負担をかけるだけのいらない存在となっていくという風に世間から見られてしまいます。もっと厄介なことは、自分もそのように感じて虚しく切なくなり、こんな状態で生きていても仕方がないと、わたしは不要で無用な存在であると、自分の命さえ疎むようになりかねないからです。しかし弱さが人間の土台であると考えられるようになると、その弱さを受容し、社会的な弱者を見たときに、「わたしの代わりにその重荷を負ってくださってありがとうございます」という謙遜さと、神様の私に対する恵みがどれだけ大きいのかという感謝の心が生まれて来るのではないでしょうか。

人間がhuman beingであって 、 human doingとは定義されない理由がここにあるような気がします。神様ご自身も御自分の名前をモーセから聞かれたときに、“I am who I am” と言い、”I am what I do” とは言いませんでした。つまり「わたしは在って在る者」であり、「わたしはやる者」ではないと断言されました。人間も同じです。存在自体に意味があって、私が何かをやるから意味があり、価値が生まれてくるのではないのです。私達の命そのものに価値があり、どんな状態になっても生きていること、生きていくことに価値があるのです。そしてそれは弱さを抱えた人が、体も、メンタルな上でも、全ての領域において健常者であると不遜に思いあがっている者達へ教えてくれるメッセージではないでしょうか。神様もこんな優しいメッセージを、年老いて神にも、人にも何も貢献できないと思っているシニアの人たちに向けて語ってくれます。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46:3b, 4)。この聖句を読むと、実は神様は生まれたときから、私達を担ってくださっていた方だったんだということがわかります。私達に力があり、自分で何でも切り拓いて頑張ってやってきたと思えた若い時であっても、実は神様が私達を支えてくれたから、そのように出来、今の自分があるのです。そして今度は年を取り、体力が衰え、歩けなくなり、ベッドの上で、介護を受けて暮らさねばならないようになっても、神のケアは若い頃から、私達を見守り助けてきたときと全く変わらず、最後には何と私達を背負ってまで、私達のこの世での人生が全うされるまで変わらずに世話してくださると約束してくださっているのです。何という神の愛でしょうか。そして何と私達の命の貴さが教えられている箇所ではないでしょうか。

弱い自分はですから、本当に大切なものを教えてくれるセンサーなのです。そしてそこに今まで私達が知らなかった神様からの恵みの世界が広がっているのです。我力で頑張って来た人には見えなかった新しい世界が、謙遜になって弱さを認める人に待っているのです。ある牧師先生がこんなお話しをしてくださいました。ある人が、シスターにこう言ったそうです。「シスター、わたしの目の前にはもう大きな試練の山があって、とてもじゃないけれど、乗り越えることができません。」そう言ったらこのシスターは、ニコッと笑って、「乗り越えることができないんだったら、くぐっていけばいいでしょう。」こう言ったそうです。そしてこの牧師はこのようにこのお話しを続けました。「問題の多くは身を低くすると、解決するんです。本当の問題は問題が起こったときに、謙遜になれないことではないでしょうか。問題が起こると、「何でわたしにこんなことが起こったんだ」って言って背が高くなってしまいます。そうすると物事の問題の背後にある恵み、祝福っていうものが見えなくなってしまうんです」と。だから弱さを知っている人は謙遜な人であり、「人生が祝福される秘訣は謙遜にある」とこの牧師は断言しています。本当でしょうか。本当なんです。この牧師先生が仰ることは正しいのです。なぜならヤコブ4章6節にこう言う約束があるからです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」一言で言えば、弱さとは、私達が祝福されるための姿を変えた恵みだからです。ですから私達も弱さを神様が与えてくれた貴重な人間尊厳の基本的権利として、謙虚になって受け入れ、この人生を弱さと共存しつつ歩みたいものです。

 

第25回:自分を正しく愛するとは

こんなお話しを耳にしました。

ある女性の子供達がまだ小さかった頃、サッカーの試合に勝った二人の子供達をお祝いするため、ご主人はアイスクリームパーラーに子供達を連れて行こうと提案しました。奥さんは家計のやりくりに大変な時期で、一緒について行きましたが、自分は食べないでおこうと思いました。子供達が好きなフレーバーを選んだ後、ご主人が奥さんに向かって、「あなたはどのフレーバーがいい?」と聞いて来た時、彼女は「わたしはいらない。」と言いました。子供達はアイスクリームコーンに乗っかった一つのアイスクリームを食べ終わり、ご主人が「お代わりを食べるか」と聞くと、子供達ははしゃいで嬉しそうにもう一つ違ったフレーバーを選んで食べました。そのときご主人はもう一度奥さんに、「あなたはどう?」と聞きましたが、奥さんは「わたしのことは気にしないで、子供達とあなたは食べてちょうだい」と答えました。そんな答え方をした奥さんを、御主人はじっとしばらく黙って見つめていました。そしてその夜、子供達が寝静まったとき、ご主人は奥さんにこう言いました。「聞いてくれ。こんなことはもうしないでくれないか。わたしはハッピーな妻の方が犠牲的な妻よりもずーっといい」と。しかし奥さんは旦那さんに抗議してこう言い返しました。「わたしは子供とあなたのためなら自分を犠牲にしても構わないの」と。するとご主人は、「あまり家族のため、家族のためと言って自分が犠牲になっていると、段々苦々しい気持ちが生まれて来て、自分だけこんなに犠牲を払っているという自己憐憫という被害者意識が生まれてくるんだよ。またいつも家族があなたに何かをしてあげようとするのを断り続けていると、お母さんは一人で何でもやっていける。家族の助けなんか必要ないっていうメッセージを送っていることになる。しだいに家族はあなたに何かいるか、何か欲しいか、何か食べたいかと聞くことを止めてしまう。そうすると、あなたは家族に見放されてしまったと感じるようになるんだよ。」ご主人に言われたことを、よくよく考えてみたその奥さんは、「ああそうかもしれない」と納得し、その後彼女は彼女に差し出されるものはどんなものでも拒否せず受け入れ、自分にもある権利は捨ててしまわず、家族の前でも主張するようになったそうです。それ以降彼女だけでなく、家族一同がとてもハッピーな家族に変えられていったというのです。

「自分は子供達が小さい時、彼らと家族を優先させるために、自分のやりたいことも我慢して、どれだけ家族に尽くしてきたか。それなのに子供達は成人して、ちっともわたしのことを心にかけてくれないし、ケアもしてくれない。」そうぼやく女性達に、自分も昔そうであったことを思い出してこの女性は、「子供達の態度は、実は昔のあなた自身の態度に由来しているからではないか」と言うのです。そしてもしそんなボヤキを成人した子供達が聞いたとしたら、彼らはきっとこう言うだろうと。「お母さん、僕たちはそんなことしてくれとは一度も頼んだことはなかった。お母さんが犠牲になることで、いい気分になっていたんでしょ。それなのに今になって僕たちが悪いことをしているような気持ちにさせ。罪悪感をかぶせることはフェアなこと?」と。

で、そのお話しを聞いて、わたしも結構そういう傾向があるなあと思い出しました。この方と同じように、どこかに家族で食べに行って、その後、近くのお店でデザート食べに寄ろうということになると、私はきまって、「お腹も一杯だし、わたしはいい」とか言ってしまっていました。お金を節約することもありますが、何かお母さんとして、一緒になって家族と楽しむというより、お母さんは家族のために遠慮して、家族に譲ることが良いお母さんであるような錯覚が、頭の片隅のどこかにあったからではないかと思います。それだけでなく、わたしが良く昔していたのは、家族で外食しようとなったとき、どこへ行くか相談するとき、わたしは「どこでもいい」と返答する習慣がありました。だから家族は私を抜きにして話し合い、どこかへ行くのですが、きまってその場所は、わたしが気に入らない食べ物屋さんなのです。「何だ、こんな所を選んで!」とわたしは心の中でがっかりしてしまいます。家族に譲ることが美徳ではないかと誤って考えていた結果です。そしてこんなことばっかりしていると、不満が募って来ました。そのうちこの女性が言ったように、ある時から、家族は私にどこへ行って食べたいかということはパッタリ聞かなくなり、自分達で決めるようになってきたのです。わたしのことをまるで空気のように扱い、わたしに注意を払わなくなった家族に、わたしはとても大切なことを学ばされたのです。「自分がはっきり意思表示しなければ、黙っていても、わたしのことを配慮して、わたしの気に入るようなお店に連れて行ってもらえると思うのは、非現実的な自分の甘えでしかない」と。そして自分を卑下するのではなく、自分を敬うことをちゃんとしなければ、家族も自分のことを敬ってくれないということに気が付きました。だからこの女性の言うことは、私自身も体験したことなので、とてもよくわかります。

さて家族のために尽くすという建前で、私がやっている犠牲的な行為は、家族を愛する行為から出ていると錯覚していましたが、実は「自分は母親として何と立派なことをしているんだろう」という、自分で自分を密かに褒めている心が働いていたのではないかと思えてきました。そしてその行為をすることにより、母親であるわたしは、家族の誰よりも人格的に勝っている者であると、暗に家族たちに伝えて、だから夫も子供達も私に感謝する気持ちを持って、わたしをこれから大切に扱わなければならないというような、暗黙の圧力を与えてしまっていたのではないかと、気が付くようになりました。皮肉にも、その裏にある見返りを求める偽善を察知するのは他でもない子供達なのです。

それがわかってくると、聖書の言っていることは実に的を得ていることを言うなと感心させられます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と聖書では命じています。すなわち本当に人を愛そうと思うなら、まず自分を愛することを学ばねばならないということです。これがこの女性が言いたかったことではないでしょうか。家族を愛するとは、自分のやりたいこと、欲することを我慢して、彼らのために自分が犠牲になって、そうすることにより家族を優先することではないのです。そういった犠牲は自分の中にも不満を作り出すだけではなく、家族も実はそんな犠牲を望んでいないんではないでしょうか。どうしてかというと、それは母親から押し付けられた愛情であり、母親が偉いということを、無理やり子供達に認めさせようとする行為のように子供達や家族に感じさせてしまうからなのです。

自分を愛するとは、自分に対する自己肯定感を持ち、人に頼らず自分を自分でケアして、自分を大切にしようとすることです。すなわち私と言う人間は、神様から造られたかけがえのない大切な存在であり、その自分をいとおしんで、受け入れること。それは家族で何か楽しいことをやろうとするときに、母親も加わってその楽しみを共有し、喜び、生き生きと家族と生きていくこと。そして自分もやりたいことを堂々とやって、家族と平等に生きていくとき、自分がハッピーになれるということです。逆を言うと、自分がハッピーでなければ、相手をハッピーにすることなどできるわけがありません。だから自分を愛するとは、利己的なことでもなんでもないんです。自分を愛せる人は、人を愛せるからです。反対を言えば、自分自身を本当に愛せない人は、隣人も愛せるはずはないのです。自分を肯定的に受け入れられる人は、他者も肯定的に受け入れることができます。むしろ聖書で言っているように、それは相手を健全に愛すためには必須の条件であるわけです。そしてこの根底にあるのは、神の私達に対する愛を受け入れているかということです。神がいかに私達を愛しているかを知ったときにこそ、私達は本当の意味で自分を愛し、人を愛していくことができるのです。自分を健全に愛せると、人を愛することができるようになるばかりか、相手に利用されて、カモにされることからも、私達を守ってくれます。

ということで私達の身近にいる家族は、私の良い所も欠けている所も何でも映し出してくれる鏡のようなものです。彼らを前にしては、私は自分を隠すことなど到底不可能であり、何でも筒抜けなのです。家族は神様が私達に与えてくださったまさに素晴らしい贈り物で、家族の中で鍛えられ育てられて、わたしは妻として、母親として、そして女性として、健全な愛というものが何であるか教えられ、実践していくことができるのだと思います。

 

 

第24回 「だから」から「しかし」へ

私達人間は自然体でいるときは怠惰で、自分を甘やかしてしまい、利己主義、自己中心な存在ではないでしょうか。それが聖書で言っている罪を持って生まれて来た私達の性ではないかと思います。

朝早く起きてエクササイズしようと思っていても、朝が来ると「昨晩よく眠れなかった」とか、「まだ疲れている」とか言って「だから」今日は止めておこうと、いとも簡単にその日の気分で計画していたことを、実践しないことがよくあります。これは自分だけのことなので、別にエクササイズをしようがしまいが、他の人に迷惑をかけるわけではないので、この種のものはどちらを選択したとしても大したことではありません。

でもたとえば教会の奉仕ならどうでしょうか。わたしが担当している月一のこのホームページのテーマ記事のことを例としてあげてみましょう。この記事を毎月書かしてもらってから、既に24か月が過ぎています。いつも何を書こうかと四苦八苦するのですが、それでも何とか毎月書き上げることができているのは、神様の憐れみと導きがあるからです。ただ正直言ってここまで来てしまうと、もうネタが尽きてしまったという思いが頭をもたげてしまうのです。わたしは作家ではないので、スランプを体験しても、また少し経つとそこから抜け出して、更に今まで以上に素晴らしいものが書けるという才能など持ち合わせていないので、もう無いものはいくら絞り出しても出て来ないから、ここらで止めさせてもらいたいと、締切日が迫ってきても、いくら頑張っても何もアイデアが浮かんで来なくなるとき、弱音を吐きたくなり投げたしたくなります。

これが「だから」思考ですね。いくら頑張ってもできないものは仕方がない。だから打ち切らせてもらってもいいのではないかと考えること。「だから」思想に私達が傾いていくときに、輪をかけて厄介なのは、悪魔が私達の弱い所をついてくるので、猶更、それに抵抗するのが難しくなることです。たとえば悪魔は私達が安易な方に向こうとするとき、いつもそれを助長して、「そういう風に考えるのは最もだ。一番大切なのは自分を喜ばして、楽しませること。それを阻止するようなこと全てに対して、あなたはする義務を負っていない。わざわざ好んで苦しいと思う事を選ばなくてもいいし、短い自分の人生を自分の益のためだけに使って何が悪い」とまことしやかに囁いてきます。

ということで、わたしは人間として当たり前のことをすることが、「だから」ではないかと思っています。普通に人がやること、自分に都合がいいように、事を回していき、人と調子をあわせ、問題にあまりぶつからないことを願って、自分の敷いた境界線の中で、そこそこ生きて行く生き方です。でも信仰者はその上を行くように求められている気がします。聖書でもはっきりとイエス様が、私達信仰者の役割をこのように語っています。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることはできない。。。。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:13-15)。確かに私達が当たり前のことをしてこの地上で生活をしているならば、クリスチャンとノンクリスチャンの識別が難しくなります。暗闇の中で照らすべき光として機能するではなく、この世で、顔のない群衆の一人として、その社会に紛れこんで、周りと同じような価値観を持って、トラブルに巻き込まれないように、この世の話す言葉や行いを真似て生活していたら、私達はイエス様が私達に期待している地の塩、世の光となって、イエス様に証しを立てていくことはできません。「あの人、どこか違う。」という風に人が私達を見るようになるには、この「だから」ではなくて、「しかし」の生き方を私達が実践していくときではないでしょうか。

こんなお話しがあります。ある男性が、アメリカに出張中に交通事故に遭い、大怪我を負いました。意識不明になって病院に担ぎ込まれ、大手術が済んで麻酔から覚めたら、左足が切断されていることを知りました。この男性、病院で、「ああ、一瞬の不注意で、人生を棒に振ってしまった」と悲嘆のドン底にいたとき、日本から駆け付けた奥さん、何と言ったでしょう。病室に入るなり、旦那さんを抱きしめ、「あなた、良かったわね。命は助かった!右足は残ったじゃない!」このお話しからわかることは、「交通事故にあって左足を失った。「だから」もう俺の人生は滅茶滅茶だ」と考えるんじゃなく、「しかし」右足は残り、命は助かったことに目を向けていく、そういう風に思考を転換できるとき、私達にはすでに「だから」という当たり前の成り行きに任せることを拒否して、「しかし」思考での生き方を選択したことになります。

私達は対人関係において、しばしば相手の出方次第で自分の出方を決めてしまいがちです。相手が私に善いことをしてくれた。「だから」わたしもお返ししよう。相手がわたしを傷つけた、馬鹿にした、からかった、私に意地悪をした。「だから」それに見合うことを相手にして思い知らせてやる。こらしめてやる。自然な反応です。でもその時に、「待てよ、わたしはクリスチャンとして、イエス様の代理人として、この地上に遣わされていたんじゃなかったか」ということに、気づくときに、「だから」ではなく「しかし」と思想を転換して悪に負けない選択をしていくことができるのかなと思わされています。

あるときペトロはイエスさまにこう言われました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。彼の心に真っ先に浮かんだ考えはこうではなかったでしょうか。「夜通し漁をしたけど、一匹も釣ることができなかった。「だから」今あなたにそう言われたって釣れないことは重々知っている。大体あなたは漁師の仕事などしたこともないのに、よく平気でそんな命令をわたしに出すことができるね。もうダメなものは、ダメなんだよ。あなたの言うことなんかとても聞いてなんかいられない。」自分の今までの経験とスキルに頼ってしまっていたなら、ペトロは彼の考え通りのことをイエス様に言って、イエス様を黙らせようとしたかもしれません。勿論イエス様はペトロの師ですから、このように考えたとしても、実際イエス様に語るときには、もう少し丁寧な言葉を使うと思います。確かにペトロは「先生、私達は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」という言葉を持って、イエス様に語りかけています。ただここでびっくりするのは、その後、ペトロは「だから」という言葉を使ってイエス様の忠告をやり過ごそうとはしなかったことです。すなわち「だから、「漁をしなさい。」とあなたが仰っても、魚は釣れないので、そんな無駄な事に労力を使いません。従えません」と続けたのではありませんでした。かえってこの言葉「しかし」を使ったのです。何とペトロは言ったのでしょうか。「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」さてその結果はどうだったでしょうか。「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」と記されています(ルカ5:4-8)。自分の判断に頼らず、当たり前で自然なこと、今までやってきたことに固執することを、ペトロが選んだなら、ここでこのような素晴らしい奇跡を目撃するというような恵みを体験することはなかったことでしょう。」「だから」と答えるか「しかし」と答えるかで、結果は雲泥の差となったわけです。

私達はともすると当たり前のことだけ、今まで培ってきた習慣だけに頼って、生きていこうとはしないでしょうか。それは安全な生き方に繋がるのかもしれませんが、神様が私達の人生に備えてくださっている奇跡を目撃する特権と恵みを、私達はミスしているのかもしれないと思うと、私達は何と勿体ないことをしているのだろうと思わずにはいられません。皆さんはいかがでしょうか。「だから」という生き方に囚われてしまってはいないでしょうか。それとも「しかし」と現状を打開し、未知のことにチャレンジし、今までとは違ったことを、やってみよう、やらせていただこうと決断することにより、神様に栄光を帰するような生き方をして、光の子としての証しを立てているでしょうか。

 

第23回:人生を何に例えたらいいか

人生は様々なものに例えられています。

例えば人生とは列車で旅をしているようなものだと。いつから自分がその列車に乗り込んだのか定かではありませんが、車両の中で知り合った人とおしゃべりしながら、旅を続けて行きます。しばらくすると一つの駅に着きます。するとそこで下車していく人が出て来るのです。せっかく知り合いになれたと思ったら別れの時がやって来ました。このようにして列車内の乗客はそれぞれ違った駅で下車をしていくわけですが、駅は実は人生の旅を終えた人の行き着く終着点だったのです。しかし旅はまだ続くので、次の駅に来ると、また新しい乗客が乗り込んで来て、車内は賑やかになります。これらの人達は私達の人生のそれぞれの時期に出くわした人だったんです。さてどれくらい時が経ったことでしょうか。長い間その列車に乗っていると、段々新しく乗車して来る旅人は減って行き、かえって次の駅が来るたびに、下車して行く人が増えていきます。そうこうしているうちに、誰もその列車に乗り込んで来る人はいなくなり、気が付いてみたら自分一人しか車内にいなくなっています。次の駅が見えて来ました。すると車掌さんが私に近づき、ここは私が下車しなければいけない駅だと教えてくれましたた。実は次の駅がいよいよ私の人生の終着点だったのです。私の人生の旅は次の駅で終わりを告げたのです。

また人生は山登りにもたとえられます。山登りは頂上近くまで登りつめなければ、視界が開けず先が見えないので、いつも曲がりくねった道を進みながら、次の曲がり角があることしかわかりません。人生もそれと同じで、私達には将来のことがわかるわけではなく、ただ日ごとの生活を一生懸命こなし、前へ進むことしかできません。また山登りはきつい活動です。人生もそれと同じで、時には私達は上り坂の人生にへとへとになり、これ以上この険しい山道を登れないと感じることもしばしばあります。息が切れて、足も鉛のボールを足につけられているように重く感じられ、体中にも痛みが走る中、ただ一歩そしてまた一歩と踏み出して行って、頑張るしかありません。何でこんなに痛い思いをして歩まねばならないんだろう、人生はなぜこんなに苦しいんだろうと感じられることが幾度もあります。でもそこで一息ついて、深呼吸をして、お水を飲んで、疲れた体をリフレッシュさせ、また頂上を目指して進んで行きます。人生も苦しみの中でもちょっとしたことに慰められて、また気を取り直し、人生の歩みが続いて行きます。

では聖書では人生のことを何と言っているのでしょうか。聖書では競技者が参加するレースに人生を例えています。そのレースを走り抜くためには、いらない重荷や罪を捨て去り、身を軽くして走り続けるようにと勧告しています。確かに競技者の着るスポーツウエアを見ると、薄くて軽い素材のランニングシャツと短パンをはいて、体のどこにも重量がかからないように気をつけます。だから霊的に私達を引きずるような重荷、煩い、悩み、そして霊的な自由を阻害して私達を束縛する罪を持っているならば、足がもつれ快速に軽やかに走ることはできないから、それらのものをかなぐり捨てて、霊的に自由になって、軽やかにレースに邁進するようにというアドバイスまで記されています。でも人生は人との競争ではないはずなのに、聖書ではどうして人生をレースにたとえているのでしょうか。ここで言っているレースとは人との競争のレースではなく、自分が敷いたその人自身のレースのことなのです。そしてレースという譬えが象徴していることは、人生とは目的もなくただ闇雲に走るものではなく、一人一人に設定されている目的、ゴールというものがあって、そのゴールに私達が達したときに、神様から与えられる報酬が待っているのだから、最後までそのことを忘れずにしっかり走り続けてゴールインしなさいということなのではないかと私は憶測しています。そして報酬だけではなく、もう一つの励みは私達を応援してくれるおびただしい証人の群れに、私達は囲まれているというのです(へブル書12章)。これは既に召された信仰の先輩達が、天国から私達が人生という競技をどのように走っているのか見守ってくれ、私達の目では見えず、耳では聞こえませんが、彼らが手を叩いて私達がゴールインをするのを応援してくれているということが、明白に聖書に約束されているのです。マラソンレースなどを見ているとわかりますが、走る道中、観客が道に出ていてくれて応援してくれます。そして最後の一周はスタジアムに入り、多くの観客の応援するのを肌で感じながら、競技者は最後の数百メートルを全力を出し切って走りゴールインするのです。そのことがわかると、私達は時には躓いて転んだり、走れなくなって歩いてしまったりしながらも、応援者の手前胸を張って、堂々とそのレースを貫徹することができるんではないでしょうか。パウロは自分の人生が終わりに近づいていることを察し、こう言い切りました。「私自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」(第二テモテ4:6-8a)。

考えてみると、この3つのたとえの共通点は、人生とは動であり、一点に止まっていることなど不可能であることを、私達に教えてくれます。私達がどんなに大変で嫌だと思う時期があったとしても、人生はそこで止まるわけではなく、この世に生まれて来た時点から、私達の人生の時計は既に動き出していて、途中でその時間を止めることはできないんだということ。毎年このことを私達にリマインドしてくれるものがあります。それは私達の誕生日です。誕生日は、私達の人生が確かに進んでいることを証ししてくれる証拠でもあります。

でもときとしてその人の人生が止まってしまっているように思えることもあります。それは引きこもりをしている時期だったり、近年セルフネグレクトという言葉が出現するようになりましたが、そのような状態に陥ったときです。セルフネグレクトとは直訳で自己放任。成人が通常の生活を維持するために必要な行為を行う意欲・能力を喪失し、自己の健康・安全を損なうことです。「生活を維持する能力」というのは入浴や歯磨き、掃除や洗濯などを通して身の回りを整えることです。また体の調子が悪ければ病院に行くといったような自分自身の体をケアすることを指します。しかしそんな生活を維持する能力を無くし、自分の健康や安全すら顧みない状態に陥るということは、最悪の場合は孤独死や自殺に繋がるケースもあり、これがゴミ屋敷の原因になっているということですが、彼らは「今の状況を改善しよう」と考えるよりは、「もうこのままでいい、放っておいてほしい」という気持ちになりがちなのです。生物には生きようとする本能が備わっていると、わたしはずっと思ってきましたが、その本能を否定するようなセルフネグレクトが起こっているということは、人間関係が希薄で、社会の中で孤立しやすく、コミュニケーション不足のこの現代であるからこそ起きる、非常に特殊な精神的病なのではないかと思わずにはいられません。

ということで、引きこもり、セルフネグレクト、あるいは自殺というような事態に陥ることが無い限り、人生とはいつも動いているはず、どこかへ向かっているはずなのです。動くといっても、私達の人生は車で高速道路を走るような平坦なものではありません。むしろ私達の人生は適当に刺激があるんです。山あり谷あり、時には川の中を渡って横切らなけれなならない危険とリスクが伴う旅なのです。そしてその旅の途上で様々な出会いや別れを体験して、ゴールが見えるところまで来た時に、最後まで付き添ってくれた親しい家族や伴侶とも別れを告げ、たった一人でそのゴールを切らなければいけません。しかし聖書に約束されているように、実は一人だと思っていたが、実は私達とその最後の行程を共に歩んでくれるお方、イエス様がおられます!だから人生の終着点である肉体の死に、私達が遭遇しても恐ろしくはありません。わたしは小さい頃よく悪夢を見ました。非常に恐ろしい形相をした誰かに追いかけられて、全力疾走して逃げようとするのですが、どうにもわたしの足が重くて麻痺してしまったようになって、走るどころが歩くのもままならないのです。とうとうその得体のしれない何者かに追い詰められて、わたしは崖の淵に立っているのです。ああ、もう絶体絶命だと思った瞬間、わたしは悲鳴をあげながらその崖から落っこってしまったという夢です。その途端に目が覚めてわたしはどこにいるかと思ったら、階段のてっぺんで落ちるぎりぎりのところに立っていたのです。悪夢を見ながらわたしは必死で歩いていたのです。あまりの恐ろしさに夢を見ながら、寝床から立ち上がって、私自身が逃げようとしていたんですね。どおりで足が動かなかったわけです。いわゆる夢遊病です。そんな恐ろしい同じ夢を小さい頃何度も見ていました。でも信仰を持って本当に感謝なことは、こんな恐ろしい人生の終わりを私達が体験しなくてもいいということです。この人生の旅路が終わったら、イエス様と共に平安に包まれながら、私達の本当の故郷である天国の門へと、入れていただけるのです。それまでこの地上で生かされている間、人生というレースを、たゆまず、あせらず、くさらず、その時期その時期に変わる周りの景色を楽しみ眺めながら進んで行きたいものです。

 

第22回:貴方は何型?逃走型、それとも闘争型?

生物は恐怖や危険の生理学的反応として、生存のために戦うか逃げるかのどちらかの行動を取ります。これはアドレナリンの作用で引き起こされるようです。人間も含まれますが、生物は、突然の恐怖や差し迫る危険に直面すると、身体に「急性ストレス反応」が起きます。瞳孔は拡大し、周囲の音は聞こえなくなり、鼓動は一気に速まり、血圧が上がって呼吸が激しくなります。すべては筋肉にエネルギーを送って危機的状況に対応できるようにするためです。敵と果敢に戦って打ち負かすか、全力で走って逃げるか、いずれにしても瞬時に身体を動かせるように身構えるためです。火事などの危機に際して、火事場の馬鹿力などといわれる怪力を発揮できた実例を私達も時に耳にします。これは「不安」「恐怖」が、ピンチを脱するエネルギーとなる良い例です。もしかしたら恐怖で身体がすくんでしまい、身動きできなくなるいわば凍結型に陥る人もいます。この3番目の恐怖への対処法は稀な出来事ですが、山奥でクマに襲われようとした人が、どんなに全速力で走ってもクマが追い付いてくると判断した人が、息を止めて、道に倒れて死んだふりをして、その危機を回避しようとするのが、この凍結型でしょう。

かれこれ35年以上も前のことですが、今でも私の脳裏に鮮明にそのとき起こったことが蘇り、そのたびに刃物で私の胸が刺されるような痛みが走ります。多分トラウマとなってその傷はずっと残っているのかもしれません。随分若かったということもありますし、あまりに力の相違の大きさに圧倒されて、その出来事が起こったとき、ただ一目散にその場所から逃げることしかできなかったわたしを、内なるわたしの霊が悲しんでいるのか、自分でもよくわかりません。ただあまりにもショックで、そのときわたしが咄嗟に取った行動は逃走だったということ。

それは3泊4日のカメロン高原で開催された、クリスチャン修養会で起こった出来事でした。スピーカーは、キリスト教世界ではかなり有名なイギリスから来られた説教者と、わたしの主人と二人でした。キャンプが始まった一日目の午後、イギリスのその「お偉い」先生が、説教壇の上からお話しをしておられました。その会場には中庭がついていて、会場と中庭には天井から床までの高さのガラス戸で仕切られていましたが、そのガラス戸はどこも全部開け放されていて、わたしは一番後ろで、その開け放されたガラス戸の隣に腰かけて、まだ3-4歳くらいだった長男を、小石で敷き詰められていた中庭で遊ばせながら、この先生のお話しを聞いていました。

突然息子が小石に足をぶつけて転んでしまい、「ぎゃっ」という声をあげて泣きだしました。わたしはすぐに彼の所へ行って抱きかかえようとしましたが、そのときその先生が突然話しを中断されて、ものすごい形相をして、私達を追いかけてくるではありませんか。わたしは恐怖でいっぱいになって、息子を抱えて、彼から逃げようと走り始めました。そしたらどうでしょう。後ろを振り向くと、この方は私達の後ろからすごい勢いで走って、私達を追いかけて来ただけでなく、「シッシッ」、「シッシッ」という声を出しながら、向こうへ行けという手振りまでつけて、私達をまるで犬のように追い払い、会場から私達が何百メートルも遠くへ行くことを見届けるまで、追い続けて来たのです。

こんなことがわたしに起こっているなんて、信じることができませんでした。わたしはそのハプニングの後、恐怖のため、その後の修養会のプログラムへ参加することができなくなり、息子二人とキャンプ場の寝室に隠れて3日間過ごしました。本当に惨めな数日でした。

なんでこの人は70-80人ほどいた出席者を取り残してまで、そんなことをする必要があったのか、ほんのちょっと子供が泣いたことが、彼にとっては許せないほどの悪事だったのか。そしてなぜ犬のように、私達を追っ払ったのか。いくら考えても理解できないことでした。人から尊敬されていた方だっただけに、これほどのことにこんな風に反応するんだということを、まざまざと見せつけられて、悔しさと失望感が入り混じって、わたしはやるせない気持ちになりました。それからは、どんなに皆に尊敬されている人であっても、100%人間を信じない方がいい、信じるときっとどこかで裏切られるという、人間不信感がこっそりと、私の心の片隅に根を下ろしているのに、気が付くようになりました。

でも聖書を読むと、聖書の女性は強いなと思わされます。多くの女性は危機にあったとき、戦うことを選択しました。アビガイルは怒り狂って彼女の家族を皆殺しにしようと、武器を持って向かって来る、血気盛んな何百人ものダビデとその若者達の一行を、彼女はとても自分一人では歯が立たないと咄嗟の判断をし、逃げ出したのではなく、たった一人で彼らに立ち向かいました。そしてダビデに敬意を表しながらも、知恵ある言葉を使って、ダビデ自らの手で流血の災いに手を下して、それがのちに彼の名声を傷つけるようにならないようにと説得し、彼を思いとどまらせることに成功し、彼女は彼女の家族と一族の命を助けました。

エステルもそうです。王様に召し出されないのに、王様の前にしゃしゃり出て近づこうとする者は、死刑に値すると知っていながら、「恐れのため、あるいは自分の命を救うために、エステルが何もしようとしないなら、ユダヤ人の解放と救済は他の所から起こり、お前も滅びることになる。しかしこのことを知っておきなさい。このときのためにこそ、おまえは王妃の位にまで達したのではないか」と叔父モルデカイに言われて、エステルはハッとして、自分の役割に目覚めるのです。そして、「このためわたしが死なねばならないなら死ぬ覚悟がある」という決断をして、王様の前に進み出ました。もしかしたらこんなことをしたら、自分の首がはねられるかもしれないという非常に危険な行為ではありましたが、彼女はそこから逃げ出そうとはせず、勇敢にその危機に立ち向かい、その結果破滅するはずだったユダヤ民族の運命が逆転し、民族救済に至ったという物凄い出来事が、たった一人の女性によって為されたのです。

アビガイルにしてもエステルにしても、勇敢に戦うことを選択したわけですが、その背後には、自分のためではなく、愛する誰かのため、あるいは愛する故国のためならという彼女らの決断があったからだっていうことがわかります。女性は愛する誰かのためにだったら、自分の命を犠牲にし、危険や恐れも克服して、それに立ち向かう力が内から沸いてくるのです。不思議です。

さて皆さんはどうでしょうか。皆さんは危機に瀕したとき、どういう行動をとるでしょうか。勿論遭遇した状況がどんなものなのか、果たして戦うだけの価値があることなのか、とまず考えると思いますが、いずれにせよこうしなければいけないという一般論が存在するわけではありません。あるときにはみすみす負けてしまうということがわかっている状況に遭遇した時、そこから逃げなくてはいけないこともあるでしょう。戦わなかったからと言って、私達は臆病で意気地がなく、誤った選択をしているとは言えないでしょう。

さて私の昔の体験ですが、今になってようやくこれはパワハラだったと思い当たるようになりました。あとでよくよく考えて見たら、この先生は脅しをかけ、私をおびえさせることによって、わたしと息子を集会から立ち退かせて、私達が再び出席することのないように、力の格差を使って、弱い者いじめをしたと思い当たるようになりました。その当時はただ無我夢中で自分に何が起こっているのかわからず、恐れに支配されたわたしはただ逃げるしかなかったわけですが、これは明らかなパワハラであり、私達がパワハラの被害を受けているとしたなら、これは戦っていかねばならないことだったと気づくようになりました。パワハラは上司や先輩から職場で受けることもありますし、学校だったら先生からあるいは同級生からの嫌がらせやいじめという形で現れます。私達はパワハラを受ける体験をし、身体的、精神的苦痛を受けたら、我慢して黙っているべきではありません。力関係を使って、一人の人がもう一人の人を従属させようとする行為は、決して容認されるべきではなく、これこそこの正体を暴いて、このようなことがこの社会で起きないように、戦っていかねばならないことだと、今では私は確信しています。

 

ということで私達が無意識にまた本能的にしている危機、危険に関する対処法を、今日は考えてみました。このことに関して少し考える機会が与えられたので、これからの私達の対処法が、私達に沁みついている性格的なことと、経験が相まって、直感的にだけ促されて行動することから、少し解放されて、そのときに主から与えられる咄嗟の知恵と力を頂いて、良い判断をすることができるようにお祈りしています。

 

第21回 祈りと信仰を結ぶもの

聖書、特に詩編を読むと、詩編作者が神に切なげに彼らの祈りを聞いてくれるように訴えている箇所が、たくさん出て来ます。それらを読むと、神が彼らの祈りに速やかには答えてくださっていないことがわかります。これらの詩編作者がどんな苦境に立たされているのか、わたしたちは想像することしかできませんが、確かに彼らは大変な場所に立たされていて、追い込められていて、切羽詰まっていることが、この必死の祈りの中で、私達は読み取ることができます。そんな状況の中で、彼らがそれでも神様に離れずに、しがみついていた理由は何なのでしょうか。

それは、神がいつか彼らの祈りに答えてくださるという、信仰を持ち続けていたからではないでしょうか。諦めずに神により頼んでいた詩編作者が、いつか神からの答えが与えられて、それに対して感謝を捧げたり、褒め称えている様子が、詩編の終わりに何度も出てきます。ただ私は不思議に思うのです。祈りがなかなか答えられないでいるとき、何が彼らの信仰を支え続けたのかということ。

祈りから信仰へと直結することは稀なのではないかと思うのです。この二つを結ぶ橋渡しがあって初めて、私達は祈ったことを、信仰へと結びつけて、その祈りの答えが与えられても、与えられなくとも、主への絶対的信頼を保ち続けることができるのではないかと思います。それではその橋渡しの役をするのは何なんでしょうか。わたしはそれは「待ち望む」という行為だと思います。これは実は私達が神を待つということだけに終わらず、神が私達を待ってくださっていることに、霊の目が開かれて、主への交わりに導かれるからです。

新約聖書で出て来るシメオンもそうでした。メシアの到来を忍耐強く待っていました。それは聖霊を通して、シメオンはいつかメシアに出会う日がくるという約束を頂いていたからです。しかしそれがいつかは知らされていませんでした。それが成就するのは、今日なのか、明日なのかと、毎日首を長くして、その日を待ち望んでいたことでしょう。そして神の約束を意識しつつ、待ち望む姿勢を崩さなかったがゆえに、ヨセフとマリアが赤子イエスを連れて、律法の規定に従ったいけにえを捧げようと、神殿にやって来たときに、この赤子こそ、彼が待ち望んでいたメシアであるという、確信が与えられたのです。シメオンは希望を失わずにいたからこそ、待ち望んでいたことが成就したという喜びを体験し、信仰が強められました。長く待ち望んだ期間は終わり、彼は遂にメシアを彼の腕に抱くという特権が与えられた。イザヤ:40:31にこんな聖句があります。「神に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」待ち望むときに、信仰が生み出され、決して諦めないという決意と、ここをひと踏ん張りして、生き抜こうとする新たな力が、内から沸き起こるのです。

 「待つ」ことは一見不毛なことのように見えます。それは行動と行動の間の何もしない場所のように見えるからです。いつも何かにせかされている私達現代人は、待つという行為が苦手で、先手を打って、待つことなしに何かができるようになることを求め、それにより待つという行為から逃れられるような対策を打とうとします。

しかしよく考えてみると、待ち望むというのは、祈りによってもたらされた、私達の心に植えつけられた小さな希望という種を養う行為ではないでしょうか。祈ることによって、私の祈りを聞いてくださる神が存在するという意識へと導かれ、それが希望という種になって、待つことを通して、その種が成長して行き、待たされる期間を経て、私達の心に神のお約束を信じる心が生まれ、それがやがて熟していって、確信へ変わるようになる。それが信仰というものではないでしょうか。私達が祈り始めたとき、神は私達にはすぐに答えを与えてはくれないかもしれませんが、しかし、背後で神は既に事を働かせ始めてくださっているのです。私が祈りによって撒いた種が、育つのを待ち望んでいるときに、「神様が何かを始めて下さった」と私達が感じ始めることができるのです。今は隠されているが、いつか待ち望んだものが、明らかになるという信仰です。それでは忍耐を持って待ち望むことのできる秘訣は、そのためにいつも心を備え、注意を神に向けていることです。

もう一つ大切なことは、祈ったことに対しての神の答えにオープンになることだと思います。神は私達の祈りに答えてくださいますが、それはいつも「イエス」というわけではなく、殆どの場合「もう少し待ちなさい」というものでありますし、時には「ノー」であります。私達がその神の答えに開かれた心を持たず、自分の祈りが答えられることばかりに執着していると、なかなかオープンな心で、神が「ノー」というかもしれない可能性を受け入れる、大きな心を持ち合わせることができません。というのは、私達は大抵「これを叶えてほしい」、あるいは「このことを取り除いて欲しい」という具体的願望があるからです。自分の願望を手放して、神が与えようとしておられるものを受け取る、その心の柔軟さが、神の御心が実現するようにという希望へと私達を変えさせてくださるのです。

ファニー・コロスビーという米国の讃美歌詩人は、生まれて間もなく失明しました。母は癒しを求めて祈りつつ様々な手をつくしましたが、かないませんでした。祖母はそれに対し、「必死に祈っても主が与えてくださらないことは、あなたが持たない方が良いことなのですよ。神はご自身の働きのために聖別するために、この子が盲目になるのを許されたのです」と言いました。そして確かに彼女は神に目を留められた存在であり、詩を作る才能と賜物が神から与えられ、美しい讃美歌の詩を後世に数々残して、私達の神への賛美の助けとなる多大な貢献をしてくださいました。

長く生きていると、私達の問題がいつも解決するわけではないという現実に、私達の目が開かれます。しかし祈りを通して、私達は神との生きた交わりの中に入れられ、そして祈りの答えを待ち望んでいくうちに、実は、神ご自身が私達を待っていてくださったことに気付かされるようになります。そしてそれを知ったとき、私達は自分の願いではなく、神の願いが何かを知るように導かれ、それを受け入れる者へと変えられていくのです。一つの聖句がわたしの心に留まります。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです」(ローマ人への手紙5:5)。祈ることによって希望を与えられた私達は、その答えがどうであれ決して失望には終わらないのです。なぜなら待ち望みながら私達の心にはすでに神に愛されているというともしびがともり、それは絶やされることはないからです。ヘンリー・ナーウエンはこう言いました。「希望とはとても特別なものです。希望とは何かが実現することを信頼することですが、それは神の約束に従って実現するのであり、単に私達の願いに沿って実現することを意味しません...わたしは自分の願いを手放そうとしたときだけ、何かしら全く新しい、自分の期待を超えた何かが起こることを経験してきました。」私達の自己願望よりもっと優れたものを与えようとして待っていてくださる神様に、私達が信仰を働かせて待ち望みつつ生きるとき、自分の抱く想像や予想を遥かに超えた神の御心が、私達の人生で成就されていくことを、私達が垣間見る恵みに預かることができるのです。祈りと信仰の橋渡しをしてくれる「待ち望む」という態度を、私達が実践していくとき、こんな祝福が私達を待っているのです。ハレルヤ。

 

 

第20回:自由意志と責任

つい最近起こったことですが、私は自分が始めた一つのチャットグループを閉鎖しました。その中の数人が、あまりにもたくさん色々なニュースをそこに送信して、それはそのグループの存在している理由とは、全くかけ離れた内容で、政治や、陰謀論、世界ニュースなど多岐にわたり、しかも投稿記事をただ送信するだけでなく、彼ら自身のコメントが付け加えられており、そのコメントに非常に煩わされたからです。第一に言葉が汚い、その上、そのコメントの大半が否定的、批判的で、いつも何かが気に入らず、負のオーラを目一杯拡散して、読んでるだけで、私の心が暗くなり、閉口してしまったからです。しばらく続いたグループだったので、どのような理由をつけて閉鎖したらいいか、考えさせられました。そのグループにいる人達からお叱りをうけるんじゃないかとか、小心な私はしばらく悩みました。お義理で健全な方向へは向かっていないこのグループを、継続させるべきかどうか。そこに何の意味があるのか。何回かその人達にやんわりと注意をして、このグループの趣旨に沿ったものだけを載せてくれるようにお願いしましたが、馬耳東風でした。

わたしは考えました。この地上での限られた人生、しかもシニアの部類に入っているわたしは、これから自分の人生をもっとスリムにして、賢く与えられた時間を上手に使わなければいけないんではないかと。しかも情報量は年々、飛躍的に増加しています。私達は今情報の大波に溺れそうになりながら生きています。ただ物知りになりたい、皆と話をあわせるだけのために、かなりの時間を割いて送られてきたニュースや、情報を読んだり、またその返答や転送などに、わたしの一日が追われることが、賢いことなのか。とはいえ、この人達が配信する情報を得ることで、知識人の仲間入りしたような気持ちになっていい気になっている自分も、どこかに存在していることにも気づきました。そしてそこから離れることにより、そのような情報からシャットアウトされ、その結果最新のニュースに疎くなる無知な人間には戻りたくないという、自分の中にある醜いエゴが、深い心の底にうごめいていることに気付かされたのです。

そんな葛藤と戦いながら、結局思い切って閉鎖するということを伝え、そのグループは解散しました。そしたら今まで重苦しく私の上にのしかかっていた圧力のようなものが、のけられるという開放感を味わうことができました。

そしてこの体験から、自由意志とは確かに、神様が人間に与えてくださった最高の贈り物であることに改めて気づかされました。自分の意志でどの人と友達になるか、自分で選ぶことができる。合わないと感じる人と無理に合わせて付き合っていく必要はない。生まれ育った環境は変えることはできないが、成人して自分の力で生きて行かなければならなくなってから起こることは、実は多くの場合、私が選んだことの結果であるということを、再発見させられました。だから、わたしが自由意志を駆使した結果生じることは、私の責任であって、誰を責めることもできないし、自分が撒いた種は自分が刈り取る。これは重い事実ですが、それを知ったことは、かえって私に解放をもたらしました

自由意志は、自分の人生のハンドルを握る成人になったときに、フル回転しますが、本当は子供の頃から少しずつ、親の監視と導きのもとに、子供が自分で選択し決断していく機会が与えられながら、トレーニングされていくことは、大人になって上手に自由意志を使いこなせるカギではないかと思います。もし親がヘリコプターペアレントとなって、子供の頭上を四六時中旋回して、子供のやることなすことに干渉し、いつも子供に何か起こる前に、先へ先へと子供の行くべきレールを敷いてあげようとするなら、親はヘリコプター式子育てをしていることになります。子供が傷つかないように、困難に陥らないように、失敗しないようにという親の過保護から、そのような子育ての仕方になっていくわけです。しかしもしいつも親が選択をしてあげ、子供の将来に関することを全て備えてあげようとしたら、子供は挫折、失敗を学ばないで成人してしまいます。嫌なことでも我慢して努力して頑張り続けるという忍耐力も育ってはいきません。

さてどうでしょうか。ヘリコプターペアレントにより子育てを受けた当人が成人になり、「これからは何でも自分で考えて決めなさい」と自由意志というバトンを渡されても、失敗も失望も我慢も努力も学ばなかったゆえに、これらの力が身についていないので、彼らは厳しい社会の中で、とても不利な状態に置かれてしまうでしょう。自分のやったことの責任が、どれほど重大なことであるかを学んでこなかったからです。また失敗したときに学ぶくやしさ、痛み、後悔などの情緒的体験を通して、人間は成長していきますが、そんなことを体験せず、ただ身体的に大人になってしまったら、色々な面でまだ子供で未熟なので、この過酷な世間に入って仕事をし、周りの人と協調しながら生きていくスキル、そして問題解決能力に欠ける人となって行く危険があります。問題が起こったとき、自分で考えて解決し、克服しようとするのではなく、誰かが助け船を出してくれる、誰かがその後始末をしてくれる。自立心が育たなかったため、非常に他人に対する依存心が強く、それが無責任な行動を起こす要因となるだけでなく、結果的に悪いことは、全て人のせいにしてしまう人間になっていく傾向にあります。こう考えていくと、子供の頃から少しづつ小さなことでも取捨選択して決断し、その責任を負わせるという自由意志をはぐくむトレーニングが、いかに大切であるかがわかるのではないでしょうか。

ですからコインの両サイドに裏と表があるように、自由意志と責任はくっついていて、切り離すことはできないものなのです。さてそれでは、間違った選択をして、その結果深刻な責任を負わなければならないような状況に陥らないようにするには、どうしたらいいのでしょうか。勿論長く生きてきた私達は、様々な環境や境遇に遭遇し、またありとあらゆる種類の人々と関わり、社会でもまれ、人生経験を積んで、ある程度の知恵を体得してきたと思います。しかしこの人生を本当の意味でよく生きるためには、人間の体得した知恵だけではく、その上にもう一つもっと大切なことを、学ぶ必要があると私は確信しています。それが神の知恵です。聖書には、「主を畏れることは知恵の初め」という真理が打ち出されています。神を畏れることを人間が学ぶとき、実は私達は神の前で本当にちっぽけで取るに足らない者であることを知らされ、へりくだされます。神を意識して生きるとき、私達はおごり高ぶって高慢になったり、人と比較してどちらが成功しているか、あるいは人気者であるか、というような水平線上での人間同士の競争に、呑み込まれながら生きていかなくてもいいことに気付かされます。

さて電化製品を買うと、必ず取り扱い説明書、操作マニュアルがついてきます。それはその機器の操作の仕方、使用方法の説明手引きであり、それぞれの機能の説明もついています。ということはその説明書を読めば、買った家電をどのように安全に最大限に生かして使えるかのヒントが与えられるのです。そしてトラブル時の対処法も記載されています。同様に、創造主である神は、人間をお造りになってくださいました。ですので私達が最善にそして最高に生きれる方法をご存じなのは、人間の「製造者」である神様なのです。そしてそのマニュアルは聖書です。自分の力や知恵に頼らず、神様を畏れて生きようとする時、神が私達に授けてくれた自由意志を、いかにうまく使って、この人生を歩んで行けばいいのか、その生きるべき指針を神自身が与えてくれ、導いてくれます。

箴言3章5節と6節の言葉に耳を傾けましょう。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

 

 

第19回 ケ・セラ・セラ、諦め、受容、皆さんの対処法はどれ?

 

ケ・セラ・セラっていうのは、もともとは映画の主題歌のタイトルです。映画と主題歌が有名になったことで、「ケ・セラ・セラ」が世界的に有名になりました。そしてこの主題歌は、アカデミー歌曲賞を受賞しましな。なるようになる。その通り。人生ってなるようにしかならない。だからあれこれと気を揉んで心配したってしょうがない。成り行きに任せてしまうのが良い。これが歌の意味ですが、 これは信仰を持っていない人達の生きる知恵っていうか生きる対処法でしょうか。2020年のコロナ禍で、私達は多かれ少なかれこのことを経験してきました。

 

それでは宿命論は何かというと、人間の境遇、行為、出来事などを含めて、世界のすべての事象は、あらかじめそうなるように定められていて、人知、人力を超えた絶対の力によって決定されているという考え方。つまり我々の意志とは無関係に事が定められていき、自分は人生を選ぶ力を持たないという考え方です。これはイスラム教の信じる教えで、まだ生まれていない人間も含めてあらゆる人の人生や、世界に起こるあらゆる出来事は、天地創造とともに、アッラーによって既に定められている、という変更不能な運命を表す概念です。すなわちわたしたちが何を行おうとも、起こるべきことが起こるのだから、運命に従うほかないという人生態度。それに加えて、宿命という考え方は、たとえそれがどれほど不条理なものであっても、これをやむを得ないこととして受け入れ、忍従するという消極的な人生態度に繋がりがちです。人間が変更できない運命の奴隷となっているので、この世界観をそのまま信じてしまうなら、今の状況を改善すること自体が無駄であり、そこを乗り越えようという気持ちがそがれてしまいます。機会を捉えるという思想は、この必然性と相反していることになるので、極端にこの概念を押し通そうとすれば、そういうことはしないという結論に達してしまうと思います。一言で言えばすべての苦しみ、痛み、悲しみという私達に襲ってくる負の運命に対して、あらがわないこと、すなわち「諦め」が、宿命論を信じる者達の応答方法だと言えるでしょう。

 

キリスト教の教えは表面的には宿命論と誤解して理解されることがありますが、根本の所で違いがあります。神は人間に自由意志行為をお与えになりました。人間が神に従うかどうか、自分の意志で決めるという自由意志という賜物を、神が人間にお与えになったということは、神にとってとてもリスクの伴うことでした。案の定、神が一番初めに造られたアダムとエバは神の命令に従うより、悪魔の誘惑にそそのかされて、悪魔の言うことを聞いて、神に背き堕落してしまいました。人間に自由意志を与えたということは、神に人間が従わない可能性があるわけですが、それでも神は人間の意志を尊重され、力づくで人間を神に従わせることはしませんでしたし、人間の自由意志を捻じ曲げても、ご自分の意志を貫こうとはされませんでした。ということは、神が定めたように、あるいは神がご計画されたようには、人が動かなかった場合、その行動の結果は、神の意図とするところとは、違った方向へ向かうかもしれません。

 

また聖書には、神は時には自分の考えを思い直すこともあると書かれています。これは預言者ヨナにとっては許せないことでした。彼はニネベの町の人達のところへ遣わされて、その犯してきた大罪のため40日したら、その町は滅ぼされるというメッセージを伝えます。彼らは非常に暴虐な民であり、イスラエルに敵対していたアッシリア人で、ヨナは神がこの民にご計画したことを成し遂げてくださることを、期待していたのです。しかし彼の思惑とは裏腹に、何とこの町の民達全員、ヨナのメッセージを深刻に受け止め、滅ぼされないように、へりくだって自分たちの罪を断食することによって告白し、悔い改めたがゆえに、神はこの町の人々に対する滅びを考え直して、憐れみをかけて赦してあげました。しかしそれはヨナにとっては絶対我慢がならない、神の御自身に対する裏切りであったのです。ヨナが神のように大きな愛の心を持っていたなら、罪人が悔い改めて、生き方を改めた結果、神にチャンスを与えてもらって救われ、神と共に生きる新しい生き方をすることを、喜ぶはずです。でもヨナはこの民に対する人種偏見のために、ニネベの住民を憎んでいて、神がこの民を定めたように滅ぼしてくれることを望んでいたので、神が思い直して、彼らを救ってくれるということを、受け入れることができませんでした。

 

この聖書の教える神概念は、山のようにでんとして立ちはだかって、にっちもさっちも動かない宿命論と違う所です。つまり聖書の神様はご自分の法則を超越しておられるので、自由にそれを覆すこともおできになります。固くて全く融通が利かない法則に、神自身もはまってしまい、言ったん定めたことは、変更できないという宿命論とは異質のものなのです。しかしとても不思議なことですが、そういう風にすると、神の定めたご計画に、私達人間の運命がずれて、それていってしまうと心配するかもしれませんが、そのことをも神は既に考慮されて、私達の救いを達成させるための手段をも備えてくださり、最終的には神の御心がこの世に成し遂げられていくように、神は手配し、調整してくださっています。

 

何という自由さを持ち合わせており、人間の考えを大幅に超越しているお方が神様でしょうか。それでいて、人間のやろうとすることに、「あ、こんなことを○○君がするなんてことは、計算に入れていなかった。どうしよう」と焦って、神の定めた目的と、人間のやることのズレにオドオドしてしまうような神様ではない、無限な知恵と力を兼ね備えている神様は、全てのことを100%把握しておられ、牛耳っておられるのです。だからわたしたちは私達の人生に訪れる災難、試練、苦嘆さえも、それが愛なる神の御手からの許しの元に、私達に渡されるものだったとしたなら、それを私達は受け入れることができるのです。勿論そこに至るまでは、私達は自分の中にある様々な戦いや葛藤を体験し、その状況に遭遇したことに対しての怒り、そしてそれを現実として認めたくないので否定、そして神様に「いい子になるからこんな目にはあわせないでください」とか「この病気を癒してくれたら、神様のためにどこにでも行って伝道し、あなたの素晴らしさを伝えます」とか神様と交渉をしたり、取引して、そのような禍を回避しようとします。しかしやがてそのような取引が無駄であることを悟るときが来るのです。このような段階一つ一つ踏んで、やっと吹っ切れて、受け入れてみようという心境になります。どうしてそういうことができるのかというと、それは究極的には、私達のことをこよなく愛し、自分の一人子である御子でさえも惜しまずに、私達を救うために捧げてくれた、絶対的な神様の善良さに、私達が信頼することができるからです。だから信仰者にとっての人生の対処法は、受容なのです。

 

2021年が明けました。一体この年は私達にどんなことが待っているのでしょうか。そして予測できないことが起こったとき、皆さんの対処法は、ケ・セラ・セラでしょうか。宿命論的諦めでしょうか。それとも信仰を持って積極的に受け入れようとする選ぶ受容でしょうか。

 

 

第18回 生活に隙間を開けることの大切さ

 

隙間っていう言葉は大抵あまりポジティブには捉えられません。今からかれこれ40年ちょっと前のずっと昔のことになりますが、主人とわたしがイギリスに留学していたとき、私達は第二次世界大戦以前に建てられた、非常に古いアパートの一室を借りて暮らしていました。冬になると、そのおんぼろアパートの窓からそしてドアの下から、冷たい風がビュービューと部屋の中に入ってくるのです。新聞紙を丸めて隙間をなるべく埋めて、寒い冬をしのごうとしましたが、何せ暖房は電気ストーブ一つしかなく、しかもコインを入れると作動するストーブで、何十時間も暖房しようとしたら、お金がどんどん無くなっていきます。貧乏学生であった私達夫婦は、仕方なく月曜日から土曜日まで学校の図書館に入り浸りで、閉店時間までそこで暖をとっていました。他の学生たちから私達は、何とガリ勉学生なのかと思われていたと思いますが、私達にはそれしか冬をしのぐ方法がなかったからです。

 

でも今日お話ししたいことは、生活に私達がどのくらい隙間を開けているかということです。隙間とは朝起きてから夜寝るまで、きちきちと全部スケジュールで埋めるんではなく、その間、間にちょっと隙間を意図的に開けておくことです。わたしはどうしてそんなことをしなければならないのか、その意味が10年ほど前まではわかりませんでした。あるとき、お友達がこう言ったのを聞いてわたしはびっくりしてしまいました。「わたしの一日の至福の時は、コーヒーを飲みながらぼーっと2,30分過ごすことだと。」わたしはそれを聞いたとき、「ああこの方は何と勿体ない時間の使い方をしているんだろうか」と正直に思ったのです。わたしにとって生産性に繋がらない時間は、全部浪費しているように見えたからです。コーヒーを飲みながら本を読んだり、ビデオを見たりできるのに、どうして両刀使いで「ながら族」をうまく駆使して、コーヒーを飲む間に、何か一緒にできないんだろうかと、考えたものです。

 

しかし年を重ねていくうちに、人生は生産性だけが全てではないと思えるようになってきました。かえって生活に隙間をあけて置くことが、心にゆとりを与えてくれ、何もしないでいるときに、実は頭脳は五感から絶え間なく吸収している情報を整理して、私達に役に立つと思うようなものを記憶に残し、必要でないものを捨てて忘れさせてくれる、非常に大事な作業をしているのではないかと思えるようになってきました。事実朝起きると、何時間か眠っているときに、頭が整理されて、自分の準備している書き物や、相談を持ち込まれたときの返答の仕方など、適切な言葉やメッセージが思い浮かぶのです。ということは、一日に何度も小さな休憩をとって、活動を休め、ぼーっとすることが、実は想像力を強めてくれるのではないかと思えるようになりました。そうしないと、わたしが自身の生活の主導権を握っているような錯覚を起こしていますが、実は主導権を握っているのは、目の前にある出来事であって、わたしはその出来事やスケジュールに引きずられて生きているんだとはっと思い当たりました。そして何も入れる余地がないほど、一日のスケジュールが詰まっているなら、神様の静かな御声を聞いて、神様にわたしの生活に入っていただく余地も残していなかったことに気付かされました。。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」詩編62:2(共同訳)と詩編作家は告白しています。静かにじっと神を待ち望む訓練をすると、喧騒しざわざわした心には聞こえなかった内面の自分の声が聞こえ、その声と対話している自分がいました。そして隙間を生活の中にいれると、様々な私が関心を向けるべき、有益な思いがたくさん浮かぶようになっていきました。

 

考えればこれは逆思考の典型的なものではないでしょうか。わたしは長いこと生産性の高さ、効率の良さが、有意義な人生を送れる秘訣ではないかと誤解していました。というのは人間は誰も平等に一日に24時間与えられていますので、それをどのように有効に使えるかが、その人の人生の豊かさを決めるのではないかと考えてしまっていたのです。だからたとえ30分でも何もしないでいるというのは、その限りある大切な一日の時間を僅かでも浪費していると考えていました。

 

ところが息を詰めて、朝から寝るまで、次々と休みもなくやらねばならないことに、追われて、びっしりと活動が詰まっている状態が長く続くと、「もうたくさん病」という病気に侵されるとある作家は言います。それは多くのことを成し遂げ、多くのことに注意を払い、しかも速やかにすべてのことを素早く処理しなければならないと、自分に鞭を打ってせき立てて、出来事と出来事の間に休みも入れずに、生活していくと、伸縮性にとんだゴムでさえ、ずっと伸ばしっぱなしにしていると、いつか切れてしまうように、いつか「もうたくさん」と悲鳴をあげて、自分の手に負えなくなる日が来るというのです。そしてこれを切り抜ける方法は従来の二つのやり方、すなわち「詰め込み」と「切り捨て」では解決しないというのです。詰め込みとは、一日があまりぎゅうづめになっていて、自分の時間がとれないので、何とか頑張って既にいっぱいになっているスケジュールに、眠る時間を削ったり、やらねばならない作業をもっと速く進めて、自分のやりたいことも入れようすること。しかしただでさえもう入らないほど余裕のない一日の活動に、もっと入れようととしても無理な話しです。反対に切り捨てといっても切り捨てるほど不必要なことはやっていないので、切り捨てるものは無いのです。すなわちここまで来ると、従来のこの二つの解決方には無理があることに気付きます。だからこの著者はこれを解決する唯一の方法は、「立ち止まる」ことだと言うのです。これは「もっとたくさん、もっと速く」の正反対のやり方です。時間の無駄であり、馬鹿げていると間違って考えていたストップを自分にかけて、ある一定の時間、期間何もしないのです。それが立ち止まるということです。

 

人間には動と静のパランスが必要です。そのことをよく知っていたイエス様は、ひっきりなしに癒しを求めてくる群衆をそこに放置しても、弟子たちと一緒にわざとその場所から離れて、自分たちだけになれる所へ行き、そこで少し息をつける工夫をしてくださいました。こんなに自分が必要とされるから、休息もせずに朝から晩まで根詰めて、彼らに仕えるというスタンスをイエスはとりませんでした。

 

私達は動と静の微妙なバランスを取りながら生きていく必要があります。しかしそれができなくなると、バランスが崩れてしまった人間性のない生き方となり、その結果ちょっとしたことでいらいらし、ストレスがたまり、不安を抱え、不眠症となり、倦怠感を感じ、注意散漫となり、挙句のあては「もうたくさん」とすべてを投げ出したくなるのです。

 

ですから何もしないことは、時間の無駄遣いなんかでなく、もっとも重要な時間の使い方だとわかってくるとこの著者は言います。そしてバランスが正常に戻ると、私達の心は信じられないほど活性化すると言うのです。それはどうしてかというと、立ち止まることにより、私達にとって本当に重要なことは何かという大事な事柄を再確認し、自分の本当の姿を思い出し、自分が望む生活を一層自覚するようになるからです。

 

実はこれがわたしも気づいた生活に隙間を与えるということです。それはある意味現代人間は、昔のようにのんびりする時間を失ってしまったつけを、支払っているのではないかと思わされています。昔はある出来事と次の出来事の間に、空白の時間がありました。学校へ歩いて行く時間とか、子供たちが家に帰ってきて、夕飯の支度ができるまでの間、犬と戯れて遊ぶとか、主婦が近所の人と垣根ごしに挨拶をして、他愛無い話をするとか、一日のうちに隙間がちょっとずつあって、そこで気持ちを切り替え、リラックスし、精神的に目覚める時間を昔は自然に作れたんです。こういう時間を喪失してしまったことは、大人だけではなく子供も同じで、特に都会に住んでいると、良い学校へと進学できるように、学校が退けたらすぐあの塾、この塾と通い、習い事もしてと、夜寝るまで毎日あっちこっちへと移動して、食事もせき立てられて食べ、ゆっくりリラックスしたり、ぼおっとして遊ぶ時間が小学生には失くなってしまったと聞きます。

 

ところでこのコロナパンデミックで世界中の人が、今までの生活のペースを落とさなければいけない状況になりました。そして家での軟禁状態を守らねばならない状態の中で、好むと好まざるとに関わらず、私達は今までの生活にちょっと隙間をあける経験をしてきたと思います。外での活動が極力減少したからです。そんな中で私達は何を感じたのでしょうか。忘れていた人間性をほんの少しでも、取り戻すことができたのでしょうか。生活に隙間があくと、自然と正しい決断と選択に導かれるという体験を個人的にしたでしょうか。多忙な現代人にとって、空白という言葉に居心地の悪さを覚えるのはわたしだけでしょうか。空白の時間が怖い、空白のスケジュールが怖い、空白の心を埋めたい、そんな強迫観念にとらわれて、意味のない、どうでもいいようなことで一日を埋めて右往左往しているだけだったら、私達は何と勿体ない生き方をしているんでしょうか。しかし生活に隙間を作ることで、もっとゆったりして、それでいて豊かで、心の満足する生き方があることに気付き、それを選択していく勇気が持てたら、わたしたちにとって、それはかけがえのない宝を見出したと言えるでしょう。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」とイエスは私達に約束してくださいました。この豊かな生き方を、生活に隙間を開ける、あるいは今やっていることをちょっとだけストップして、立ち止まることにより実践してみませんか。

 

 

第17回 日本人と西洋人の話し方を超える美しい話し方とは

 

まず日本人と西洋人の話し方の違いを考えてみましょう。

 

「何か飲む?」西洋人は本音で聞いてきます。それで日本的な考え方をして、まず一旦断って相手の反応を見るというやり方を、西洋人はしないので、「ノー、サンキュー」といった私の言葉を文字通り受け入れて、それ以上聞いてくることはしません。わたしはアメリカに住んでいたとき、何回かそんな経験をしました。そして、「ああ、ここは日本ではない。本音で話さなければ、相手に伝わらないんだ。相手はわたしが本当にいらないんだと思っているから、それ以上は聞いてこない」と思って、それからははっきりと「イェス、プリーズ」と言うようになりました。日本人の家に行くと、相手はただの社交儀礼で言っているのかどうかわからないから、それを確かめるために一応遠慮します。だから「何も構わないでいいですよ」とかいう言葉を使うのです。それでも相手が飲むように勧めると、初めて、本音で聞いてくれているのだとわかり、それで相手の勧めを受けいれます。

 

とにかく直球で会話をしないので、日本人の頭の構造は複雑だと思います。西洋人のように、嫌なこと、できないことは「ノー」とはっきり言えません。相手に不快な思い、あるいは嫌われるのを恐れて、単刀直入に「ノー」と言えないのです。また「イエス」もなかなか自分の好き嫌いがはっきり言えないために、お義理で、その人に借りがあるから、または自分の本位ではないのだが、人に勧められたから、あるいは相手に気に入ってもらおうとしてつい「イエス」と言ってしまうのです。そしてあとで「イエス」と言ったことを、苦にして紋々としてしまうということが、おきてしまいます。

 

そして日本人はいつも相手と話しを合わせうようとするので、相手と違う意見を言うことをためらいます。違う意見を言うと、相手を批判している、相手を尊敬していない、という風にとられるのを恐れるからです。

 

でも西洋人は違います。彼らは堂々と自分の意見を主張することを恐れないし、自分の違う意見をもっている人の前でも、「自分はそうは思わない」あるいは「わたしはあなたの意見に賛同しない」とはっきり言えます。それは彼らがその人と、その人の意見とはっきり区別してみているからです。他方日本人はその境界線が曖昧で、人が自分とは違う意見を言うと、何か自分の人格を批判され、拒絶されたような気がして、落ち込んでしまいます。だからお互いに本音が出せずに、極力相手に合わせて会話をしたり、仲良くつきあっていくために、違う意見を言わないようにしてしまうんです。

 

わたしのお友達は今西洋の国に住んでいます。その人が日本人のお友達と結婚している西洋人旦那さんに悪びれもなく、「おいしい奥さんの手作りの料理を食べすぎていると、太るかもね」と言ったら、肥満気味で自分のイメージを気にしていたその人が、「自分の容姿に関することは、言わないでくれ」とはっきり言われたと言っていました。日本人だったら気にしていることを、はっきり相手に口にされたら、ちょっと嫌な気持ちになりますが、それだからと言ってわざわざ相手に「こんなこと言わないでほしい」とか言いません。この男性はわたしの友達との付き合いを、大事に思うからこそ、本音を彼女に話してくれたのだと思いますが、本当に文化の違いに目からうろこです。

 

どちらの文化が良いなんてことは、わたしは言うつもりはありません。

 

はっきり言うことで、相手に自分のことをわかってもらおう、そしてわたしも相手がどんなことを考えているのか知りたいと思うなら、直球の会話、お互いの本音をストレートに話せばどんなに楽な会話ができるかと思うことも多々あります。しかし他方では、そんな中での会話はともすると、相手のことをわかりたいと思う以前に、自分のことをわかってほしいという気持ちの方が先立つような気がします。そして違う意見を言う人が出たら、何とかその人の意見を変えようとやっきになったり、その人より自分の方が賢いことを示そうと、スピーチのスキルのうまさを使って、相手をやりこめようとはしないでしょうか。またそれぞれが自分の意見を何でも話すことが自由にできるなら、話下手の人は、すごく損をしてしまいます。皆の前でうまく自分の考えを伝えられないから、その人は自分に対する劣等感を持ってしまうかもしれません。

 

この西洋的な本音を言う会話の仕方と、やんわりと話して相手を傷つけないようにしながら遠回しに言う日本人的会話の仕方と、どちらも先にあげたように、良い点も悪い点もあるので、この二つからの良い点を足して、二で割れるような話し方があれば理想的だと、わたしは思っていますが、そんな話し方はあるんでしょうか。実はあるんです。それが聖書的話し方です。

 

聖書に「愛を持って真実を語りなさい」という御言葉があります。これこそ和洋折衷でどちらの良い所も取り入れた話し方ではないでしょうか。日本人のように相手に嫌われたくないとか、その場の雰囲気を壊すのが怖いと思うと、本音では話すことができなくなります。でもそれは聖書が真実を語りなさいという言葉と、反することをしてしまってはいないでしょうか。和を尊ぶがあまりに、真実さを軽んじる傾向が出てくるからです。クリスチャンにとって真理はとても重要なことです。イエス様もはっきりと、悪魔が真理をよりどころとしていないのは、彼の内には真理がないからだと、ヨハネによる福音書8章で語っています。更に続けて「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。それは悪魔は偽り者であり、偽りの父であるからだ」と言明して、悪魔の本性はどんなものであるのかということを暴いています。ということは、たとえ害のないおべっかやお世辞であったとしても、自分が心からそうは思っていないのに、外交辞令だけでそんな言葉を発してしまうなら、クリスチャンとして、私達はこの聖句に従って生きていないことになります。

 

しかし気をつけねばならないことは、言おうとすることが真実であったからといって、もしかしてそれが相手を批判するような事柄であったり、または言い方に気をつけないと、その言葉が相手に私の意図したように伝わらないかもしれません。だから聖書では「愛を持って」という言葉が付け加えられているのです。これが相手のことを思って、やんわりと話す日本人の話し方に通じるのではないでしょうか。

 

ここで愛を持って語るというときに、助けになる3つの原則をお話ししたいと思います。まず話すときに、この原則を適用するのです。

 

まず第一は「今それを相手に話す必要があるのか。」噂話をしたくなったとき、この質問をすることは、私達の自制心を高めてくれます。本当に私が話そうとすることは、話す必要のあることだろうかと自問していくと、多くの場合、別に話さなくてもいいことだということに気づきます。

 

第二は「今わたしが話そうとすることは真理に基づいているか。」先ほどもお話ししたように、これは非常に大切な原則だと思います。私達がどこからか風のうわさで聞いたことを、あたかも真実であるかのように話すことは間違っています。まず話す前に、その信憑性を確かめてから話す。もしそれについての信憑性が薄いなら、そのことに触れることはやめるという原則です。

 

第三は「今わたしが話そうとすることは、親切だろうか」これが愛を持ってということだと思いますが、親切な言葉をかけるというのは、簡単なようで案外難しいものです。自分の気持ちに余裕がないと、親切な言葉はなかなかかけられません。聖書ではまた別の箇所で「塩味の聞いた言葉を語りなさい」と言っていますが、相手の心に通じるような真摯で、親切な言葉を話して、相手を励まし、相手を支えるような話し方は、常日頃私達が磨き上げていかなけれなならないスキルであると同時に、自分の心の在り方の問題でもあると思います。人に対する憐れみや愛がなければ、どんなに立派な言葉を使っても、相手の心を動かすことはできないと思いますし、ましてやおごり高ぶって、わたしが相手の悪い所を指摘して矯正させてあげるなんてことは、できるはずがありません。

 

 

いかがでしょうか。ということで「愛を持って真理を語りなさい」というのは、なかなか容易なことではないことがお分かりいただけたと思います。聖書で「舌を制御できる人は一人もいません」と断言していることは、なるほど確かなことです。とはいうものの私達はクリスチャンとして、美しい言葉、人に伝わる言葉を語っていくような努力を、常日頃心がけていける人でありたいと思います。

 

 

第16回:心に留めることの大切さ

 

年をとると物忘れがすごくなる。わたしも例外ではない。わたしはしょっちゅう家の中で探し物をしている。息子いわく、わたしの人生の大半は物探しに使われていると。ちっとも褒められたことではないが、息子が皮肉を込めてわたしのことを批判していることは、理にかなっている。このことを防ぐ唯一の方法は、物を置く場所をあらかじめ定めておいて、いつもそこに物を戻すことが一つと、急いでいてそこまで戻すことがままならないとき、一時的にどこかに置くにしても、「ここにおいた」という自覚と意識を持って、意図的に脳に置いた場所を覚えさせるようにすること。

 

私たちが忘れるようになるその大半は、やることに対して、意識をせずに自動的にやっているからです。その行動に心がこもっていないからです。考え事をしながら、手や足は動いていて、意識のないまま色んなことを、こなしてしまっていて、その結果何をどこへ置いたかというのが、すっぽり抜けているのです。

 

さてクリスチャン生活は、長く信仰生活をすればするほど、信仰生活が習慣化してしまい、自動モードでやれるものでしょうか。デボーションもするかしないかいちいち考えてではなく、朝起きたらやることが習慣化して、機械的にやれる。お祈りも朝と夜短くても祈って一日を始め、祈って一日を終えられる。でもそういうことしたからといって、わたしのクリスチャンとしての義務は終わったと考えるなら、何かが間違っています。祈ること、聖書を読むこと、などといういわゆるクリスチャンとしてやることが期待されている「儀式」をちゃんとやっていれば、それで信仰生活が潤ったものとなり、信仰が成長するかというとそういうものでもないような気がします。キリスト教信仰とは、聖書についての知識を得ることではないからです。聖書やイエス様についての知識の深さと、信仰の深さは必ずしも正比例はしません。私たちの中に神を、主なるイェスを、本当に求める心があるか、そして肉なる罪の性質に陥りやすい自分の弱さを知って、いつも霊によって導かれ、霊に満たされて歩み行動するためには、私たちが信仰生活を意図して、やっていかなければならないのではないでしょうか。惰性に流されて、誘惑におびき寄せられ、この世の欲に惑わされないようにするには、私たちの心を意識して、神に向け、霊のアンテナを意識的にイエスに合わせていかなければならないのです。それは自動的に私たちのもとにやってくるものではなく、日々の自分の罪、肉の弱さと闘って意識的に勝ち取るべきものです。

 

パウロもそのことをよく知っていました。ですからフィリピの信徒への手紙4章8節でこう言っています。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」こういう美しい特質は、私たちは自動的には考えないことなのです。

 

ということで、私たちの霊性が高められ、信仰の成長を望むなら、私たちはどういうことを考え、どういう言葉を発しているのかに気をつけて、極力意識的に聖書で奨励されているすべての良きことと、優れていることに思いを留めることです。罪をもって生まれた私たちは、ネガティブな言葉、考え、気持ちになるのはいとも簡単です。特に私たちは、この世で多くの批判や裁きを受けてきたので、自分に対しての見方や、他の人に対する見方まで、否定的になっているのかもしれません。人の良いところを見ようとするより、相手の欠点や、足りないところ、過ちがすぐに目に留まって、悪いところに目がいきがちで、その結果その人を批判的な目でみるようになります。さてこのようなネガティブな心の状態でいたらどうなるでしょうか。私たちはなおさらネガティブなサイクルにはまってしまって、抜けられなくなります。

 

これは心理学でも説いていることです。幸せだと思う人と不幸だと思う人の違いは、実は普段使っている言葉だと提唱します。言葉が現実を造り、未来を造っていくというのです。ではなぜ言葉によって現実が変わるのかというと、脳みそが私たちが発した言葉に従って、その証拠集めをするからです。同じことをするにしても、たとえば学校の遠足を例にとって考えてみましょう。「ここは空気が澄んでいて、景色も美しい。こんな良い所に連れて来てもらってわたしは本当にラッキー!」そう言いながら歩いていると、脳みそがその証拠集めを始めます。「ああ、あそこのお花畑、なんてあの黄色の色が鮮やかなんだろう。」とか「川がそばを流れているんだろうか、せせらぎの音が聞こえる。なんと心地よい音だろうか。」とか「あそこの田んぼで作業していたオジサンが、私たちに手を振って挨拶してくれた。何とこのあたりに住む人たちは優しい人なんだろう。」というふうに気持ちが良いと感じる情報ばかりを脳が集めてきます。そして家に帰って家族に今日の遠足の話をするとき、「本当に楽しかった、また行きたい」となります。では反対に同じ場所に遠足に行っていたとしても、「わたしにはおしゃべりしながら一緒に歩いてくれるお友達がいない」とか、「こんなに長距離を歩かされて疲れるわ」とか、ネガティブな言葉を発すると、今度は脳がその言葉にまつわる情報ばかりを集めてしまいます。たとえば「道にごみが捨てられていて汚い」とか、「田舎だからいくら歩いても、道に自動販売機も置いていない」「何だか景色もぱっとしない」「歩きすぎたから明日は筋肉痛だろうなあ」とか。ネガティブな言葉を発したがために、それにまつわる情報を脳が集めてしまうのです。その結果どうなるかというと、「ああ、遠足なんていうけど、大したことなかった」「疲れただけで、さっぱり面白くなかった」とか、一言で言えば、言葉は人の気分や発想を大きく左右すると言うものだというのです。

 

この心理学にもあるように、言葉がネガティブだから、脳がマイナス面ばかりを捜す。そうすると発想も気分もネガティブになる。そうすると言葉もまたネガティブになる。これをぐるぐる悪循環してしまうのです。その悪循環をカットするには、このような徳目に心を留める訓練をすればよいのです。そして意図的にポジティブな言葉をセルフ・トーク(私たち自身に語っている言葉、心のつぶやき)してみるのです。変えてみるべきはこの心の思いであり、このセルフ・トークなのです。なぜならイェス様は私たちの外側に現れ出てくる様々な言動は、私たちの心から出てくると言われました。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ6:45)。普段 から悪いものに心を留め、悪い物ばかりを見、それらで心をいっぱいにしていると、そういう人間ができあがっていきます。しかしそのようなゆがんだ眼鏡、ゆがんだ考えを、聖書の御言葉に照らし合わせた良い眼鏡に掛け替えて物事をみること。つまり良いものに心を留め、良い物に注目し、良い物で心を満たしていると、そういう心の状態にとどまっているうちに、私たち自身が造り変えられて、そういう人間になっていきます。心してそのようなことに自分の考えを向けていくと、段々と私たちはそのように考え、私たちの古い罪深い考えから刷新され、霊によって新しく生まれ変わる者とされていくのです。

 

どうでしょうか。良きこと、優れていることに心を留めるということが、こんな風にわたしたちを変えてくれるということに、気づいておいででしょうか。

 

 

第15回:断捨離とミニマリストの生き方を超える生き方

 

今日本では断捨離の生き方、ライフスタイルが流行っています。色々な物が有り余るほどあり、諸々の品々が雑然と部屋や家の中を占めていて、しかも散らかっていると、生活空間が狭くなるだけでなくうんざりして、物で心が押しつぶされてしまうと、この断捨離の生き方を推奨する人は提言します。彼らは居住空間は心の中を現しているとも大胆に言ってのけます。家の中に物がたくさんありすぎて散らかっていると、心は雑然となり、きれいでさっぱりした思考が出来なくなり、考えも雑然とまとまらなくなり、だらしなく思いついたままに行動するようになる。すなわち自分の考えや気持ちにも悪影響を及ぼすというのです。

 

だからただいらないものを捨てるだけではなく、量を減らして物を手放していくことを考えて、シンプルで簡素で、物の少ない状態で暮らしていく。それがミニマリストと言われる人達の生活様式で、物の居場所を決めて、収まる量だけにする。必要以上に貯め込まない。すっきりとした住まいを整えると、気持ちも快適となり、心地よい感覚が蘇る。それだけでなくもっと気軽に生きていける。つまり人生そのものも変わっていく、そして物が少ない生活を送ることで幸せになれると提唱・主張します。

 

ミニマリストとは自分が本当に大切で必要としてるモノを分かっていて、それ以外を減らす人。これを提唱する人がこういうふうにミニマリストのことを説明しています。「ミニマリストはただ単にモノを減らす人ではなく、大事なものだけを残してそれ以外を捨てる人。だからミニマリストでもピアノを持っている人もいる。でもこのような人はピアノは残すけれども、他のモノは捨てている。ではなぜ大切で必要でない以外のモノを捨てるのかというと、必要でないものに、エネルギーやお金を費やすことなく、大事なものに集中するため。余計な物があると、それらに惑わされてしまって、大事なモノに手が回らなくなる。だからミニマリストはただ単に断捨離が好きな人でも、持ち物が100個以下の人でもなく、自分が本当に大事で必要としているモノをわかっていて、それ以外を減らす人で、そんなライフスタイルをすることで、幸せを感じられる人のこと。」

 

すなわち断捨離やミニマリストの提唱者は、片付けは生き方にも繋がるという考え方をするのです。適切に片づけて持ち物を管理していくことで、自分を管理できるようになる。整理できてくると、部屋の中にも心の中にも余裕が生まれてくる。持ち物と向き合うことで、物との関係を問い直していって、心の中まで整理することができ、無駄遣いをしなくなる。更に言えば、断捨離をすることで、自分の中にある執着を手放すことができて、もっと自由に生きれると考えるのです。

 

私は、この断捨離の考え方は、キリスト教の考えかたにも通じるところがあると思わされました。特にこの世の欲にはまらず、執着せずというところです。この考え方は、私たちが神よりも物質に頼り、お金に頼る傾向から、私たちを救ってくれます。たとえば、ヨハネの手紙一2:15はこういう風に命じています。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」もう一つの共通点は、今あるもので満足すること。これはパウロも私たち信仰者に推奨していますが、クリスチャンとして私たちは「わたしはどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(フィリピの信徒への手紙4:11)というパウロの生きる姿勢に倣って、満足することを学んでいかねばならないのです。

 

確かに断捨離は今家にある物を見直すという点では、私達に益を及ぼしてくれる生き方ではないかと思います。自分のやり方、生活の仕方を意識して見てみる。そして改善できることはないかと周りを見直すことで、今まで必要でもないものを貯め込んでおいた、何年も使っていないものを放置してただ埃をかぶるのに任せていた、ということに気付き、それをじゃあこのへんでそういうものを処分してみよう、と行動していくことは大切です。そういう気付きを与えてくれ、それにより私の生き方がもっと効率よくなり、生きる環境が今までより心地よいものになるならそれに越したことはありません。

 

ただそれが高じて、絶対物を増やさないという哲学に縛られすぎると、一つ家に物が増えるたびに、古い物を処分しなければならないという強迫観念に陥ってしまう危険性があります。そうしなければダメという思考パターンになってしまうと、本当はもっと自由に生きれるはずの断捨離が、そのような生き方をしていない人を蔑んだり、裁いたり、あるいは自分には出来ているという自尊心から、自分は他者よりも優れているという優越感を、人には言わないかもしれないけれど、密かに抱えていることだってあると思います。

 

ただミニマリストの人は物の少ない生活を送ることで幸せになれると考えている人達で、物を減らすこと、物理的なものに執着しない、欲を断ち切ること自体が、彼らのゴールで、断捨離ができ、ミニマリストの生活を歩む生き方をすることで、彼らは幸せに辿り着いたと考えるのです。勿論クリスチャンはそこでは終わりません。もう一歩先に行って、もっと大切なものに、目を向けていくように、聖書では促されています。執着心から、思考が解放されたなら、今度は上の物を求めなさいと聖書は奨励しています。「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を惹かれないようにしなさい」(コロサイの信徒への手紙3:1、2)。  

 

またクリスチャンは断捨離的生き方に自由を見出した人たちではなく、キリストに自由を見出した人たちです。自分の力でいらないものを手放すことができたといって、自分の頭を撫でてよくできたというのではなく、全てのことを為してくださったお方、私たちの救いを完成して、「完了した」「ヨハネ19:30」と言ってくださった救い主イェスキリストに、自分の人生を明け渡してゆだねる生き方が、クリスチャンの生き方です。私たちの一番の重荷は、家の中に散らかっている物ではなく、罪なのです。そしてその罪から救ってくださる方はイエスしかいらっしゃらないのです。‘

 

 

第14回:安定性のある生き方に必要なもう一つの軸 

 

私達人間は縦軸を必要としています。縦軸のない人生は錨を失ってしまった船のようで、大波が押し寄せると、あるいは突風になったときなど、その場所にしっかり踏みとどまっていることができず、船は港から離れて、大海へと漂って行ってしまいます。

 

縦軸が無いものだから、横軸という人間同士の関係が非常に重要なものとなってしまい、私達は他の人を見ながら、自分の行動を制して、とにかく周りの者と同じことをしていれば、大丈夫、安心というふうになってしまうのです。これは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということわざからもわかるように、絶対的価値観が無いので、みんながいいと思うことが、善悪の判断基準となってしまいます。

 

人間同士の関係で善悪の判断基準を決める横軸が人の規範となると、「恥」が大きな役目を果たすようになります。たとえばこれはアジア人に顕著なのですが、「相手に自分の顔が立たない」ようなことはしないし、また家族に恥をかかすようなことはしないようにするのです。もう他界してしまったわたしの母もよくわたしに「人の迷惑になるようなことはやってはいけない」と言っていました。母はそれが度を過ぎて、私がもう成人となり、結婚し、家庭も持ち、子供も育ててきている、母の家族とはまた違う家族を営んでいる者なのに、そのわたしを相手に、わたしが日本へ一時帰国して実家にいるとき、東京にいる友達に会うために一日早く故郷を去って東京へ行くというと、「あんたそんなことはやめなさい。友達の家に泊めてもらうなんて、人に迷惑をかけるなんてことはせず、まっすぐマレーシアに帰りなさい」とわたしを止めようとするのです。また誰かが何かしてくれたら、それに必ず報いてお返しをしなければいけない。人に借りを負ったままでいてはいけないと言う考えを持っていました。わたしの母は、「恩」と「義理」という道徳観が恥の文化と相まって、それらに縛られて生きていました。

 

横軸での生き方を一言で言えば「人が見ているからやらない」「人が見ていないから構わない」といった他人の目を気にして自分の行動を決める生き方です。これは絶対的な基準に基づいて自分の行動をしているのではなく、相対的な基準で人の前で恥ずかしいことはしないという行動規範を自分に課しているのです。人前で恥をかきたくないため、控えめが美とされ、個人の益よりも、グループ、団体の益を考えて人と協調して生きることが、日本社会では奨励されてきました。それで誰かが会社内で大きな失敗をし、会社に多大な損害を与えてしまうと、「会社に迷惑をかけてしまった。この恥を拭う手段は「切腹」をして、責任をとることだ」と考え、自殺をしてしまう人が出てしまうようになるのです。これは恥の文化が何かを良く代表している行為だと思います。誰かに自分の悪行が知られたら非常に恥ずかしさを感じ、もう生きていけないとさえ思うようになり、その結果死さえ厭わないようになるからです。反対に裏を返せば、他人に自分がやっていることがばれなければ、自分のやったことは悪いとは感じないという側面もあります。自分が確信した信念や信条という内側から出たものではなく、外側からくる周りのプレッシャーから生じたものだからです。

 

まとめますと日本人は物の良し悪しについて考えるとき、世間の評判や、他者の目を基準とした道徳に乗っ取って行動し、そこにプラスアルファ自己の体面を保つことも重要な要素となっているのです。そんな日本文化は、ヨーロッパのサッカーなどにおけるフーリガンは起こりません。勿論日本人だってお祭りなど騒ぐところでは騒ぎますが、時と場所と限度をわきまえないことを恥ずべきこととして共有して認識しているので、そういうことは日本ではあまり見かけないのです。他人に迷惑をかけないということに関しては、日本人は結構徹底して守ることができます。これはいわば日本文化の美点と言っていいかもしれません。日本では子供の頃から相手が嫌がることはしない、周りを考えて行動するといった考えが根付いています。これは集団生活をする中で、とても基本的な大切なことであり、そういうお互いへの思いやりが、和を保つ潤滑油の役割を果たしてくれるからです。

 

さてどうでしょうか。横軸だけの人生を送っている人と、縦軸も入っている人生はどう違うのでしょうか。実は縦軸の入っている人生は、横軸だけの人生と違って、世間の目がそんなに恐ろしいものではありません。横軸の土壌が根付いたのは島国で、山に囲まれている日本の地形にも大いに関係があるかもしれません。狭い日本で暮らしていくには、常に他人の目を意識し、他人の口を恐れて生きるしかありません。他人に笑われたくない、恥をかきたくない、このような基準で行動が規定されます。しかし正しいかどうかで行動を決めるのではなく、世間がどう思うかで、自分の行動を決めるというのは、何と疲れることでしょう。か。そしてこれは相対的価値観であるので、世間の目が変われば、自分の恥の感じ方も変わるということになります。柔軟性に富んでいると言えば聞こえがいいですが、実はこれは功利的な生き方ともいえるのです。「旅の恥はかき捨て」ということわざにも示されているように、自分のことを誰も知らない場所へ行ったら、「これをしてはいけない」という外側からのプレッシャーが外され、羽目をはずして普通ではやらない馬鹿げたこと、恥ずかしいと思われていることも平気でやってしまう心理がここで生まれます。しかし反対に神や、正義や良心とかという絶対的な価値観を生き方として拠り所とするならば、時代が変わり、社会が変わっても価値観は変わることはありません。

 

それでは縦軸の入った人生とは、どういう人生かと言うと、神が絶対的は基準を持って、この世をお造りになり、その神の絶対的基準を知って、人間が謙遜になり、神の規範に基づいて地上の一生を歩んでいこうとする姿勢です。これがあると物干しざおを掛けるのに、柱を地中に植えて土台を据えてから、物干しざおという横軸を掛けるように、縦軸があると人間の生き方は安定します。どうして安定するかというと、縦軸の入っている文化は、私達が間違いや過ち、罪を犯したとしても、それで終わりではないということ。自分が悪かったと正直になって認め、それを神に告白することで、神に赦していただき、心の重荷を降ろすことができます。その反面恥の文化では、罪を告白しても、心は軽くはなりません。自分の顔が立たないようなことをして、人の前に恥をかいたら、それがずーっと尾を引いて休まることはありません。恥の文化は購罪に関しては、全く無関心であり、幸福だけを願う、そこに一番の関心を置く文化です。横軸だけの人生は自分の過ち、失敗、罪に対しての解決策を持ち合わせてはいません。それで「あまりにも自分が人に迷惑をかけた」、「恥をかき過ぎた」と思うと、その人に残された唯一の手段は、自分の人生に決着をつけて終わらすことしか考えられなくなるのです。縦軸を持っているクリスチャンのように、神に赦しを請うて、罪を赦していただき、清められて、またリセットボタンのスイッチをオンにして、再びやり直しがきかないのです。何と惨めなことでしょうか。信仰はここが強いんではないでしょうか。恥を超えるバックボーンがあるからです。

 

ヨハネの手紙一章9節にこう言う約束が明白に記されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私達を清めてくださいます。」皆さんはこの素晴らしい約束を信じ、他人の目、口を意識しながら人を恐れて一喜一憂する生き方ではなく、神からの平安をいただいて、聖書の価値観に支えられて生きる縦軸の生き方ができているでしょうか。

 

 

第13回:先の事が読み取れない祝福

 

この世の中で生きている限り、将来を予測してもらいたいという人間の願いを叶えようとする占いは繁盛すると思います。運勢占い師に手相を見てもらい、果たして近い将来結婚相手が現れるか、仕事が順調に行って昇進するのか、あるいは転職の機会が訪れるのか、はたまた子宝に恵まれるのかどうか等々、ありとあらゆることを私達は知りたがります。また多くの人は、新聞に掲載されている星座占いを見ることが日課となり習慣化して、明日の運勢を調べることで、安心感を得ようとします。確かに私達は色んなことが前もってわかれば、どんなにいいかと思わないでしょうか。例えば私達の選んだ決断が正しかったたのかどうか、子供の進路に対しての親のアドバイスが良いものであったのか、反抗して手もつけられないような子が、いつか素直になって、正しい道を歩んでくれるのか。急に仕事が続けられなくなり、実家の田舎に戻ってきた成人した息子が、いつか引きこもりから立ち直って、社会復帰ができるのかとか。癌に侵されてしまったが、はたして完治するのかどうか。知りたいことは山ほどあります。

 

でもよく考えてみると、未知がわからないからこそ、人間は生きていけるんではないでしょうか。人生には良いことばかり到来するわけではありません。悪いことがいついつ起きるということがわかり、それは運命で必ず起こるということが、前々からわかってしまうとどうでしょうか。あと何年、何か月、何日でそれが起こるとわかると、そのことばかりが頭を占めて、それに囚われてしまい、心配と恐れで一杯にならないでしょうか。あるいは回避できないとわかると、急に周りの世界の輝きが失せてしまい、憂鬱な気分に落ち込まないでしょうか。楽しいことがその前に起こったとしても、楽しみを100%享受できず、これから起こるであろう嫌なこと、悪いことに私達の関心の重心がかかり、その楽しみも30%しか喜べなかったら、せっかくの楽しみも台無しになってしまいます。

 

又全てこれから起こることが、前もってわかってしまうと、人生の面白味は無くなってしまうと思います。自分に何が起こるか予測できないからこそ、私達は今日よりは明日が良い日であることを願い、希望と信仰を持って進んでいけます。そしてたとえ辛い厳しい試練が訪れたとしても、そのとき主に与えられた知恵と力で、精一杯頑張り、乗り切れるのではないでしょうか。ところが自分の人生の全てが、全部丸見えになるということが起きるなら、「ああ、自分の人生は結局はこんなものでしかないのか」と生きる意欲がそがれるかもしれません。

 

もちろん先のことがわからないときに、私達は不安を感じるものです。あるカウンセラーがこう言いました。「心が健全なときは先のことを考えても、大丈夫だけれども、心が風邪を引いているときには先のことを考えると、心に負担を与える」と。どうして不安になるのかというと、先のことは私達のコントロール下にはないからです。何が起こるかわからない予想ができないことが私達を不安にするのです。それは言い換えれば、私達が全てをコントロールして、自分の人生を制御したいという罪の現れだと思います。不確かさに置かれることに対してストレスを感じるなら、それは自分が何でも仕切ろうとする自我が現れている兆候です。仕切り屋になってしまうと、自分の計画したように、事が運ばないと、例えば、急に予想もしなかったことが現れたり、計画の中に入っていないことが出てきたりすると、いらいらしてしまいます。そしてその不安を避けるため、自分の力で何とか先のことまでコントロールしようとする人も出てきます。そうなるとそういう人は、先へ先へと物事を見越して、起こるであろうことを想定し、綿密に計画を立てて、準備して備えるという窮屈な人生の枠を自分でこしらえることになります。あたかもそういう人生は、自分で自分が設計したブループリントの人生という牢獄の中に監禁された囚人のようではないかと感じるのは、わたしだけでしょうか。もしかしたらこのようにすることで、自分が自分の人生を仕切っているような錯覚に陥り、そのため先のことに対する不安が少しは緩和されるのかもしれません。しかしそんな人生は何と余裕のない、融通が利かない堅苦しい人生でしょうか。

 

聖書ははっきり私達には明日のことをコントロールする力がないと教えてくれています。それをしたがるのは、主に任せて委ねる信頼が欠けている証拠だと言わねばならないでしょう。箴言16章9節に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩備えてくださる」とあります。クリスチャンは仕切り屋の癖から脱皮しなければならないのです。神が全てをご存じで、その神に信頼して、忍耐強く事が為されるのを待つことは容易なことではありません。でも私自身には病気、事故、死を免れることも、災難が降りかかることを止める力もありません。ですからわたしが出だしに書いたように、私達はかえって先のことを知らされない方が幸いなのです。

 

聖書は他方、私達が明日のことを知ろうとするためのエネルギーを使うより、今日という現在 を一生懸命生きなさいと奨励しています。マタイによる福音書6章34節で「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」とイエスは語っています。確かにこのイエスの言葉は実践すると本当であることがわかります。先に対する多くの不安を抱えている人が、「もうこれ以上考えたら、心がパンクしてしまうと思って、先のことは先においておいて、とにかく今を一生懸命生きることに徹したら、先がおのずから開かれていった。気が付いたら不安が乗り越えられていた」という証しをしていらっしゃいましたが、本当にそうだと思います。先のことを入らぬ心配をしてエネルギーを費やし、心に負担をかけ、そのため今日が生きられなかったなら元も子もありません。

 

さてどうでしょうか。私達は与えられた今日と言う日を精一杯生きて、明日のことは主に委ね任せて歩もうとしているでしょうか。そしてそうすることにより、神が決して私達を失望させない方であるという神の真実さを体験して、信仰が深まっているでしょうか。

 

 

 

第12回:信仰とは何か  (2020年6月)

 

信仰と言う言葉を耳にするとき、私達はともすると、信仰は私達が「持っているものか」、「持っていないものか」というふうに、区別しがちです。いざというときに、私達が信仰を発揮することができないと、信仰を持っていたと錯覚していただけで、私達は始めから信仰なんか持っていなかったんだというふうに、結論づけてしまいます。

そして信仰はあたかも、使っているうちに段々無くなる性質があるかのように考えがちです。だから私達は一週間に一回礼拝でメッセージを聞いて、私達の信仰が消え入りそうになっていたその状態から、携帯電話を充電するように、私達も充電しに教会に行くというふうに。あるいは何日もガソリンスタンドに行かなくてもよいように、車にガソリン満タンにして入れて、その入れたガソリンで長いこと走ることができるように、私達の信仰生活もそのように考える傾向がないでしょうか。すなわち定期的に教会へ行って信仰を満タンにしてもらって、その信仰というガソリンで信仰の歩みを長持ちさせて、一週間持たせてもらい、また次の週に教会へ行って、信仰のガソリンを入れるというふうに。私達は信仰をそのようには見ていないでしょうか。

 

今日はルカによる福音書8章の22節から25節の短い箇所で、イエスが突風を静めたお話しから見ていきたいと思います。しかしここで注目してほしいことは、イエスが弟子達に言われたお言葉です。突風に逢い、船が大揺れに揺れて波をかぶり、このままでは転覆して、全員溺れ死んでしまうのではないかと、弟子達はパニック状態になり、その嵐の中でも動じずに眠りこけていたイエスを起こして、「私達は溺れそうです」と告白したときのイエスの言葉に耳を傾けてほしいのです。イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われました(25節)。イエスは「あなた達にはどうして信仰がないのか」と詰問したのではないのです。つまりイエスにとって、信仰とは「有る」か「無い」かではなく、どんな信仰でも、それを働かせねば意味がないし、また働かせるときに、信仰とは成長していくものだということを、教えたかったのではないでしょうか。

 

信仰は私達がイエス様を信じたときに、私達に所有権が与えられた、クリスチャンの財産です。ただ信仰は使わなければならないものなのです。ただ持っていても、使わなければ、クリスチャン生活の役には全く立ちません。だからイエスは弟子達をこのような環境に置いて、彼らが信仰をどのように働かせるかをご覧になろうとしたのではないでしょうか。もちろん弟子達が嵐に逢ったことは、彼らの責任ではありません。同様に、私達が人生の嵐に遭遇するとき、多くの場合、私達はその嵐に対して何の責任も持っていません。ただ言えることは、私達は人生を襲う嵐を避けて通ることはできないということと、遅かれ早かれ私達の人生に嵐はやって来るということです。

 

しかし問題は嵐にどう応答するか、それが私達の責任の領域なのです。人生の嵐がやってきたとき、それが予期しなかったことであったり、自分がコントロールできないと感じるときに、わたしたちの心に恐れが出現します。確かに恐れは人間の自然の反応です。でもそんなときにこそ、私達は恐れに打ち負かされるのか、信仰を働かせるのか、その選択肢が私達の掌中にあるのです。そう考えると人生の嵐は、信仰を試してくれる良いツールとして、神がお用いになるのではないのかなと思わされます。信仰も使わねば、筋肉のように弱くなって使い物にならなくなるからです。だから大きな人生の嵐だけでなく、どんなときにも、信仰を働かせる訓練を日ごろからしておく必要があるのです。

 

このお話しは人間であるイエスと神であるイエスの両方が、同時に明確に表れているお話しだと思います。一方では非常に「人間臭いイエス」が描かれています。イエスは疲労困憊して、突風に船が大揺れに揺れても気付かぬほど深く眠りこけていました。この時点ではイエスは弟子達と何ら変わらない普通の人間として登場します。弟子達も自分達でこの状況を対処できると思っているうちは、イエスに関心など示さず、イエスが眠っておられるのを、邪魔せず放っておかれたのです。他方弟子達の力が及ばない領域に入ったときに、弟子達はイエスを起こしました。起こされたイエスは「あなた達の信仰はどこにあるのか」と非難されました。それは何を意味したのでしょうか。弟子達がパニック状態になって「先生溺れそうです」と言ったとき、彼らはもうこの状況に悲観して絶望状態になっていました。「何とかしてください。先生、あなたならこの状況を一転させてくださいます。あなたは神様ですから。」という信仰心を働かせて、イエスに何かをしてもらおうと懇願するために、この言葉を発したのではなかったのです。「もうダメです」「溺れます」と今の状況を、イエスに報告していただけだったのです。信仰心を起こして発せられた言葉では無いことを知っていたイエスは、そのことを弟子達に気付かせるために「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問うたのです。言い換えれば「あなたがたはわたしが奇跡を起こすのを何度も見ていながら、どうしてわたしへ信仰を置こうとしないのか。」というイエスの彼らに対する失望のトーンが、その声音に混じっているのです。そしてイエスはこんなときにこそ信仰を発揮できない弟子達に、御自分は真に神であることを弟子達に実演して見せたのです。イエスが風と波を叱りつけると、自然がイエスの言うことをきいて、風も大波も嵐もぴたりとやみ、おおなぎになりました。人間は自然界の猛威には、無力な小さな存在です。しかしここでイエスは、イエスに対する彼らの信仰を揺るぎないようにしてくださるために、自然界を統御する力をも持っていることを、お示しになりました。

 

弟子達のここでのイエスへの信仰と、外国人のカナンの母親の(マタイによる福音書15:21-28)とは何と対照的だったでしょうか。この女性がイエスに、悪霊に苦しめられている娘を癒してくれるように頼んだとき、イエスは自分はイスラエルの人々に遣わされたのだと言って、その彼女の願いを一度ははねつけましたが、彼女はそんなことでは引き下がらず、外国人で劣っていたとしても、犬が食卓から落ちるパン屑を食べるように、わたしにも残った物でもいいので、イエスの力を恵んでほしいと懇願したとき、イエスはその食い下がる執拗なまでの信仰を「見事だ」とお褒めになって、彼女の娘を癒してくださいました。

 

恐れによって信仰が麻痺してしまった弟子達と、彼女は何と異なっていたでしょうか。さてここから私達は何を学ぶでしょうか。恐れと信仰は共存しないということ。どちらかが私達の心を支配するのです。しかし忘れてはいけないことは、イエス御自身がその船に乗っておられるということです。人生の嵐に逢う時、神は遠くのかなたで、傍観しておられる方ではないということ、その嵐との戦い、葛藤の真っ只中にいて、いつでも私達が信仰を働かせて、神に助けを求めるときに、その私達の信仰の姿勢を喜んでくださり、大いなる力をもって、私達を救ってくださる用意があるお方だということです。

 

信仰とは、わたしには果たして信仰が「有る」のか「無い」のかといつも何かあるたびに、自分の心に問うて、疑惑に苛まれ、困惑するのではなく、自分に頼みをおくことを放棄し、誰が私達の人生をコントロールしているのかをもう一度新たにし、神と神の御言葉の約束を信じ、いつもわたしと共にいると約束してくださったお方にすがりゆだねていくことです。「あなたの信仰はどこにあるのか」とイエスに問われる前に、どんなにスケールが大きい嵐がやってきて、それに飲み込まれそうになったとしても、その嵐より偉大なお方が船に乗っていらっしゃるという信仰を呼び起して、主に目を留めて主に信頼していくことを、私達も学びたいものです。

 

 

第11回: 感謝することの本当の意味 (2020年5月) 

 

今月は主に感謝することの大切さを考えてみたいと思います。聖書箇所はルカによる福音書17章11節から19節、ハンセン病人が癒されたお話しです。ハンセン病 はその当時不治の病と見なされていました。ハンセン病に聞く薬はまだ発明されていなく、またこの重い皮膚病は近くにいくと感染すると考えられていて、人がハンセン病にかかると、その人が住んでいたコミュニティから村八分にされ、人里離れた場所でハンセン病者のための集落に隔離されました。そこで彼らの症状は段々重くなっていき、指がもげ、足が腐っていき、最後には社会から忘れられたまま、命が消えていってしまう、影のようにしか生きれない運命に、追いやられていました。

 

私達がこのマレーシアで3月の半ばから5月の半ばまで体験した、自宅での自粛隔離は、デジタルテクノロジーの恩恵を被っているおかげで、テレワークも可能ですし、自分が連絡を取りたい人と繋りを持ったり、又外に出なくとも、必要な物は殆どオンラインショッピングで賄えますし、娯楽もインターネットや、テレビを使って見れました。まことに利便性の良い社会に生きているので、隔離の重さの意味を本当の意味では私達は体験していませんが、この時代の隔離は現在の隔離と雲泥の差がありました。

 

ハンセン病にかかった人達は生きている間中、社会と断絶され、人との接触や交際が無くなり、不自由で孤独な生活を余儀なくされていました。そしてどうしても用事があって、この集落を出て、町に入って行かなければならないとき、彼らは「私は汚れています、汚れています」と大声で叫びながら、周りと社会距離を取り、他の人が偶然に彼らに接近することがないように、人々が彼らを避けて離れる状況を、自ら作りあげていかねばならなかったのです。すなわち自分の存在をいやらしい、汚い者と定義づけて、用事をすまさなねばならない、まことに屈辱的な体験を、外に出るたびに味わわねばなりませんでした。

 

さてこの箇所では、ハンセン病患者の住んでいる集落に近い村に、イエスが来られたということを聞いた10人のハンセン病者が、何をしようとしたかが、記述されています。11節を見ると、彼らは遠くの方から立ち止まったまま、声だけ張り上げて、「イエスさま、先生、どうか私達を憐れんでください」と叫んでいます。隔離された状態から、抜け出ることはできないけれど、彼らの持っている唯一の武器の「声」を使って、イエスの注意を引こうと大きな声を張り上げて叫び、この自分達の無情な運命を、イエスが変えてくれるようにと、必死になって懇願します。彼らのその絶望的な叫びを聞いたイエスは、その惨めな状態から彼らを解放してあげようと、奇跡を起こして、彼ら全員を癒されました。彼らはどんなに嬉しかったことでしょうか。しかし不思議なのは十人のうちたった一人しかイエスの所に来て、感謝の意を表さなかったことです。どうして他の九人はこの劇的な彼らの運命を変えてくれた、いわば「命の恩人」であるイエスにひれ伏して、心からの感謝を捧げなかったのでしょうか。イエスもこのあまりの九人の無頓着さに呆れておられます。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

 

でも良く読んでみると、イエス御自身が彼らに、「祭祀達のところに行って体を見せなさい」と言われたのです。言い換えれば、「癒されたことを、祭祀の所に行って見てもらい、その癒しが本物であるかどうか証明してもらいなさい」と促したのです。彼らは癒されたので、もう汚れた者ではないことを、きちんと祭祀に証明してもらうことは、社会復帰していく上で、絶対に端折れない重要な行為でした。だから祭祀の所へ行くことしか、彼らの頭には無かったのかもしれません。「イエスの命じたことに従って、律法に定められていることはした。それで良い」と考えたのでしょうか。この九人がユダヤ人であったことが、彼らの関心が、律法に乗っ取った正しいことをすることだけに集まっていたことを、よく現しているような気がします。私達の観点で、「命の恩人」であるイエスに感謝することを忘れたなんて、彼らは何と常識がなく、社会的マナーも身に付けていない人達だと批判することは簡単です。しかし私も同じことをよくしているんじゃないかと気づかされました。お祈りしていたその答えが与えられると、すぐにそれに付随してやらなければならないことに、注意がいってしまい、それをこなすことに一生懸命になり、気づいたら「主に感謝することを忘れていた」って、ずっと後になって気付いたということがよくあったなと思わされました。

 

かえって律法に縛られていない十人の中でたった一人の外国人だけが、素直に自分が一番やらなければならない大切なことを、しっかり確信していたので、他の九人とは違った反応をすることができました。それは祭祀の所へ行ったあと、またわざわざイエスを捜し出し、神に賛美しながら戻って来て、感謝を捧げたのです。神を知っていると自称している人達が、この場での判断を誤り、かえって神のことを信じていなかった外国人が、神の存在とその大きな力を見せつけられて、神を賛美し、その神を信じ、拝し、感謝を捧げたとは、何という皮肉でしょうか。

 

しかしわたしが強調したいのはこの九人ではありません。この戻ってきた一人に、イエスが為してくださった素晴らしい祝福です。ここに「癒す」という言葉が、3つ違った言葉で表現されています。14節では「清める」15節で「癒す」そして19節で「救う」(新改訳では「直す」)という言葉です。他の九人は汚れから清められ、癒されはしましたが、一番肝心の「救われる」という体験をすることができませんでした。「救われる」という体験はイエスと対面して、イエスに直接癒してくださったことへの感謝の意を、人が表すときに、初めてイエスの方から与えられるものなのです。ただ体だけではなく、心も霊もその人まるまる全き者へと変えられるのです。へブル語に「シャローム」という言葉があり、ユダヤ人は挨拶をするときにこの言葉を使いますが、これはただ単に「平和、平安があなたに訪れますように」という祝福だけではなく、もっと深く「あなたの人生の領域の全てにおいて平安に生き、あなた自身も体、心、霊が癒されて、全き者となりますように」という意味が込められています。ここもそうです。神様の前に出て、神が為さってくださったことを、私達が認めて、へりくだって感謝するとき、神御自身が私達を全き者としてくださるのです。神はそれを私達に届けようと、手ぐすね引いて待っておられるのです。

 

感謝と祝福はクリスチャンが大いに用いるべき武器です。なぜかというと、この二つは悪魔が決してやらないことだからです。だから私達がこの武器を使う度に、悪魔は退却せざるをえないのです。そのようにして私達は、少しずつ悪魔が影響を及ぼす領域を縮めることができます。だから私達が神への感謝を表現し、そして出会う人に祝福を願って、祝福の言葉を私達が口にすることを学ぶなら、主は私達を通して、祝福が及んでいくようにされます。そして主に感謝することを実践する人に、神は本当の意味での救いとシャロームを提供してくださるのです。感謝にこんな効果があるとは何と素晴らしいことでしょうか。

 

 

 

第10回:主の招き(2020年4月) 

 

活動制限令が施行され、外界との接触を極力控えて、家で隔離しているようにとの指示が出されてから、早やもうすぐ一か月を迎えようとしています。もうその期間が終わるのが目の前に迫った4月10に、その活動制限令がまたもや4月28日まで、もう2週間延長されることになりました。こんな体験は殆どの人がしたことがなかったことと思います。いつでもどこででも人と会える、集会も持てる、交 わりもできるという、人間として基本的な要求である対人関係を持つことが、物理的に不可能になってしまったのです。もちろん私達は現代の素晴らしいテクノロジーの恩恵を受けて、オンラインで世界中の人と繋がり、相手やグループともカメラのお蔭で、話している人/人達を見ながら、会話や、話し合いをしたりはできますし、仕事を持っている人は、在宅ワークがありますが、それでもやはりお家にこもって、一人でいる時間が格段に増えた今、私はこの事態をどういうふうに受け止めればいいのか考えさせられています。

 

そんな中で主からの招きを強く感じます。「心と体を休めなさい」という招きです。今までこんなにまとまって家にいる機会が殆どの人になかった中で、強制的に家にこもって全てのことをしなければならなくなったとき、神様の静かな小さな声が聞こえてくるような気がしています。今までは神の声が他の雑音や騒音によって消されてしまっていました。そして肉を持っている私達は自然と、今目の前にあることに焦点がいってしまい、見えない、そして本当に静かになって、自分の心の耳をすまさなければ聞こえない、神の語りかけを無視したり、疎かにしたりしていました。でも今多くの活動から解放されたとき、もはや神の声は聞こえないと言い訳することは、できなくなりました。今までは主がその長いお手を差し伸べて、「私の元に来なさい」と私達を待っていてくださいました。それなのに、私達は平気で、神に待ちぼうけをくわせていました。でも今度は私達が神を待つ番です。少年サムエルは小さい頃から霊的にとても敏感な少年で、神が「サムエルよ」と呼んだとき、その声を聞くことができました。そしてこう答えました。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」哀歌3章25節にこう書かれています。共同訳と新改訳二つを引用します。「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる」「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」どちらもとても心に響く御言葉です。私達が主を尋ね求めること、待ち望むことを、主は心から願っておられるのです。神に待っていただいた過去から、今度は私達が積極的に神の元に近寄り、神と交わりを持ち、神からの語り掛けを聞こうと、ゆったりと急がずに、神がわたしに近づいてくださるのを待つのです。誰かがこう言いました。「祈りにおいて大事なことは、そこに求めがあるか、渇きがあるか、ということ。祈りはどう祈るかという形から入るのではない。私達の中にある求めや渇きから入る」と。

 

もう一つは体を休めること。私達はロボットではないので、休みなく働き続けるようには、創られてはいません。一週間に一回仕事から離れることと、一日の終わりに睡眠をとって体を休めることで、私達は次の日へのエネルギーが与えられます。動と静とのバランスがうまくとれないと、私達は体を壊すだけでなく、精神的にも健全な状態でなくなります。ずっと緊張しっぱなしだと、ゴムを最大限に引っ張り続けているようなもので、いつか切れてしまいます。体だけではなく現代社会はマスメディアが携帯やパソコン、その他様々なdeviceを媒介として、入ってくるので、これでもか、これでもかと過剰な刺激が、脳神経にもかかり、ストレスがたまり、また五感も刺激を受け過ぎています。こんな昨今主が「そのようなものから少し離れて、頭も体も休めなさい」と招いていらっしゃるような気がします。窓の外から見える景色、それは庭の緑であったり、さんさんと輝く日の光を元気一杯にうけてさえずっている鳥であったり、青い空や白い雲であったりするのですが、そんな景色を何も考えずにぼおっとしてしばらく見つめていると、何だか心がリフレッシュします。忙しさにかまけて、自分の体を酷使して働き続けたら、そのつけが必ず回ってきます。詩編23篇に「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とあります。主は私達を体ごと休ませてくださるお方です。外側からいつもせかされている生き方から解放されると、この詩編にあるように、私達の魂も生き返るのです。新約聖書に来ると、主御自身が、私達にイエスのもとに来て休むように招いてくださっています。マタイ11章28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とお約束があります。私達の重荷をご存じで、わたしよりも先にそれを負ってくださる方が、わたしの元に来て休みなさいと招いてくださっています。 

 

神が与えてくださる心と体の休まりを通して、私達はリフレッシュされ、精神的にも癒され、これからの生き方がリセットされたら、きっとこの時期はのちの生活に大きな影響を与えるのではないでしょうか。物質的に多くの物が山ほど自分の周りにあることが幸せなことではなく、物質的に少なくとも、いや故意に断捨離をしていきつつ、少ない中で暮らすことを学ぶ、そしてあるもので満足する。そして大切なものと大切でないことへの区別をつけ、大切なものを取捨選択していける機会を、主に与えてもらった貴重な時間と捉えています。

 

 

第9回:私達は自分と他者との間にどんな境界線を引いているでしょうか。(2020年3月)

 

さて第1回から第8回までずっと色々な角度から恵みというものを学んで来ましたが、今月はちょっと恵みの学びから離れて[境界線]ということについて考えてみたいと思います。家の境界線は自分の土地がどこからどこまでであるのかを示す枠となります。同様に私達も自分と他者を区別するため、自分の中に心理的境界線を引いているでしょうか。自分とは誰かをよく現すものが境界線で、自分がこういうものを大事にしている、そしてその境界線を人が勝手に侵入してくることを許さないというのが、境界線です。 

 

イエスがどういう所で境界線を引いていたのかを見ることで、私達も引かねばならない境界線が何であるのか(それは一人一人違っていると思いますが)考える機会となれば幸いです。

 

Ⅰ.イエスは自分の魂のケアを第一にした。これはイエスがどんなに忙しいときでも、またどんなに疲れていても、決しておろそかにしないことでした。いつも朝早く起きて(マルコ1:35)、父なる神と交わり、そこから力と恵みをいただいて、彼の元に来る人達に必要な働きをするための原動力にしていました。弟子達にも時おり群衆を後においても、船に乗せて向こう岸に行かせて、自分達だけで休んで、力を得る時を持たせました。ということは、イエスはどれを一番優先すべきか知っており、そのことを、たゆみなく実践されていらっしゃいました。どんなに人々がイエスのもとに押し寄せて来ても、自分の魂のケアを疎かにしてまで、人々に仕えるというスタンスはとりませんでした。これはイエスがきっちりと自分の人生に引いていた境界線でした。そして魂のケアを一番優先すると言う決断をすることにより、イエスの一日のリズム、それは結局は人生のリズムに繋がりますが、そのような静と動というリズムを見事に保っていました。だからどんなに難しい問題が起きても、パニックになったり、途方に暮れることはありませんでした。それだけではなくイエスは霊的な満たしをいつも父から授けられていたので、どんなに忙しい日々を送っても、燃え尽きることはありませんでした。皆さんはどうでしょうか。魂のケアに関しては、絶対何事も、誰に対しても譲らないというはっきりとした境界線を引いているでしょうか。

 

2.イエスは人を喜ばすため、あるいは人の期待に応えるような境界線は引かなかった。むしろ自分の確信に基づいた境界線を引いていた。弟子達は最後までイエスの使命を誤解していて、イエスを政治的軍事的救い主として立てようとしましたが、イエスは彼らに振り回されることはありませんでした。イエスの使命とは父なる神の御心を遂行すること、それは十字架の道を行くこと、すなわちイエスが生贄の羊になって人類のために死ぬことでした。その使命を知らされた弟子達、特にペトロはどんな反応を示したでしょうか。「そんなことが決してあってはならない」とイエスをいさめました。しかしイエスはそんなペトロの反応に断固として同調しませんでした。ペトロの期待に応えるどころかかえってマタイによる福音書16:23によると、 ペトロを激しく糾弾しています。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

もう一つの例はイエスとイエスの家族との関係についてです。イエスの家族は、彼らがイエスの身内であるという権利を笠に着て、イエスが人々に仕えて、神の国の働きをしていたとき、イエスを呼んで、イエスを家に帰らせようとしました。それはイエスのやっていることを邪魔して、家族の問題やニーズの方を優先するように、イエスを仕向けようとする動機から出ていたものではないでしょうか(Mt. 12:46-49)。そのときイエスはどうしたでしょうか。いくら家族といえども、イエスはそのようなプレッシャーに屈しようとしませんでした。家族の間ではどうしても境界線が曖昧になることが多いです。特に親と子供の関係において。夫婦間でもそうです。家族のために良かれと思ってやることが、実はその人のためにならないことがあります。たとえばアルコール依存症の夫と妻は共依存関係になりやすいのです。妻は自分がいなければ夫はダメになると、自分が夫の救い主のようになり、夫の飲酒問題の尻拭いに自分の価値を知らないうちに見出してしまって、その結果夫を助けるどころか、夫が自分の行動に責任を持つことをしなくなるため、いつまでたっても夫はそこから抜け出ることができなくなってしまいます。しかしイエスは自分の家族だからと言って、何を置いても彼らの言うなりになり、彼らの望むことをやろうとはしませんでした。イエスは誰をも特別扱いはしなかったのです。かえって今イエスが関わっている人達、自分と一緒に働いてくれている同労働者こそ、イエスの家族であると言われました。神の御心を妨げようとする人は、家族であっても聞き入れようとはしませんでした。それはイエスが家族を尊敬しなかったということではありません。イエスは家族のもとで30年生活し、父親の職業も受け継いで、家族のために仕えてきました。しかしだからと言って、家族がイエスの身内だということを全面に出し、その結果イエスを自由にできる権利を彼らが持っていると思うことは、間違っていることを教えられました。彼にとって真の家族とは、神の御心を行う人達、彼らこそが彼の兄弟、姉妹、両親なのであると。 

 

3.イエスは自分の立てたスケジュールに合わせて境界線を引いていたのではなく、今という時を大切にし、今という時に合わせて境界線を引いていた。これは現代人とは非常に違う点ではないでしょうか。忙しい私達は気付かぬうちに、自分が計画したスケジュールが神様のようになってしまい、それから外れたことがおきると、つまり中断や割り込みが入ると、不快に思ったり、いらいらしたりしがちですが、そのように予期しないことに私達が出くわすときにこそ、神の導きがあるのかもしれないと、わたしは思うようになりました。すべてスケジュールどおりに動いていないと気がすまないというのは、神のコントロール下に私達が自分を置くのではなく、自分のコントロール下に全てを置こうとする自我の現れだと思います。だから心して、スケジュールは一応立てるが、それはあくまでも暫定的なものであり、いつでもそれが崩されたり、変更があってもおかしくないし、何か割り込みが入った、それでスケジュールを調整しなくてはならない時がきても、それを邪魔と思わず、主がくださった思わぬ良い機会だと、積極的に私達が捉えることができるかどうかだと思うんです。それは私達が境界線を今というときに合わせて引いているのか、それとも自分の立てた今日こなすスケジュールに合わせようとした境界線を引いているのかにかかっています。イエスはいつも人との出会い、そして今という時を大切にしたので、決して急いで物事をこなそうとはしませんでした。井戸端であったサマリアの夫人とも、時間をかけて話をし、また彼女の話にも耳を傾けました。そのゆっくりとしたやりとりの中で、イエスは彼女に罪を認識させ、彼女に救いをもたらしてくださいました。私達も次にやらねばならないことに、いつもプレッシャーがかかっていると、大切なことを見逃したり、神がくださるその時にだけしか与えられない機会を逸してしまうことがあります。

 

 

第8回 立ち直りへの近道の恵み (2020年2月)

  

先月は悪魔の策略を学びましたが、悪魔の策略に陥り穴に落っこちてから、イエスに救いを求めるよりも、てっとりばやい近道が実はあります。それは何かというと、悪魔にそもそも私達の人生に入らせる足掛かりを与えないことと、自己憐憫の穴に落っこちないことです。神の恵みを自分のものとするには、十字架の許に私達が立ち戻り、私達がどのようにして救われたか思い返す必要があります。私達が救われたのは、私達が何かをしたからではなく、神から無償で与えられた賜物によるのです。

 

悪魔が私達に近寄って、「お前はまたもしくじってしまった。」「おまえは神から見て可愛げのない強情で、頑固者だ。」更に進んで、「お前は落伍者だ。」「どんなに頑張ってもお前はダメ男、ダメ女だ、諦めた方がいい。」「お前は所詮神を畏れない不信者と同じだ。」と囁き、私達の心をくじけさせようとしますが、その言葉を真に受けて信じてしまうことは、悪魔に私達の人生に入ってくる足掛かりを与えてしまったからなのです。そして私達はその策略にまんまと引っかかり、知らない間に自己憐憫という穴に落っこってしまいます。そのような策略に乗らない一つの方法があります。それは私達がどのようにして十字架の御許に、導かれたのか思い出すことです。ローマの信徒への手紙5章6節にその真理がはっきりと記されています:「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」この節は自分の弱さを見せつけられるときにこそ、まさに他の誰でもないこんな不信心な私のような者のために、キリストが死んでくださったという真理を、改めて確信させてくれます。回心したときだけでなく、現在も、罪に勝利を得ることのできない、不信仰で、不信心な自分のためにこそ、恵みが働いているということを、確認することのできる節なのです。そしてこれが私達への神が与えていらっしゃる近道なのです。

 

すなわち悪魔が私達を非難するために近づいたとき、私達は悪魔と戦うのではなく、その悪魔の言っていることに速やかに同意するのです。そして悪魔にこう言い返すのです。「わたしが不信者であることを思い出させてくれて、ありがとう。確かにわたしはあなたの言う通りの者だ。だからこそキリストはわたしのために死んでくれたのだ。」実際ローマによる信徒への手紙5章6節から10節を続けて読むと、私達はアダムとエバの堕落の結果4つの打撃を受けたものです。Ⅰ)不信者;2)罪人;3)敵;4)弱い者。しかしそんな私達を神はキリストによって救ってくださいました。コリントの信徒への手紙二5章21節でパウロはこう言っています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。私達はその方によって神の義を得ることができたのです。」イエスが私達の罪を引き受けてくださり、死ぬべき運命にあった私達が死なず、イエスが死んでくださったことにより、今度はイエスの義が私達に与えられたのです。罪と死がイエスにふりかかり、反対に私達の上には義がとどまるようになりました。この交換があったからこそ、私達は神の恵みを受けるに値する者なのです。

 

立ち直る恵みへ至る近道は、私達が罪を犯したとき、悪魔の非難を真に受けて、自分は所詮罪に打ち勝つことなんかできない、敗北者だと諦めて自己憐憫の穴に落とされるのではなく、それが自分の本当の姿だと同意して、だからこそ神の恵みを受けるに値する者なのだと、喜んで神の与えてくださる赦しと恵みを信仰によって受け取ることなのです。

 

ということは私達は、敵と口論したり、争う必要がないのです。私達にできることは、ヤコブの手紙4章7節に推奨されていることを実践することです。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」私達の間違いは、悪魔に服従し、神に反抗してしまうことなのです。しかしここで注意しなければいけないことは、この順序をさかさまにしてはいけないということです。すなわち悪魔に反抗すること/抵抗すること/こらえることが最初ではないのです。これは私達の力では無理です。私達がまず最初に神に服従するとき、初めて悪魔に抵抗して、自分の信じていることから揺るがない歩みをすることができます。どんなときにもまず主の許へ行くこと、主の恵みの守りの中に入って初めて、自己に対して、罪に対して、サタンに対して勝利を収められます。

 

 

最後に私達を守るために有益な垣を自分の周りにめぐらしましょう。自分の前と後ろにこの二つの節をしっかりと建てて、垣にしようではありませんか。その二つの節とはエフェソの信徒への手紙4章27節と30節です:「悪魔にすきを与えてはいけません」;「神の聖霊を悲しませてはいけません。」興味深いことにコレヘトの言葉10章8節の後半にこういうことが書かれています。「石垣を破る者は蛇にかまれる。」垣は私達を外敵から締め出す役目をしてくれます。この垣の中にいる限り、私達は悪魔という蛇にかまれる危険から守られるのです。いかがでしょうか。わたしたちはこの二つの聖句を、私達の信仰生活を送る上で、なくてはならない原則としてしっかり心に植え付け、それを私達の垣として、この二つの聖句の上に、自分の霊的生活を建てあげようとしているでしょうか。もしそうなら、わたしたちは恵みに至る近道を見つけたと言えます。 

 

 

 

第7回立ち返る恵みII (2020年1月) 
さて去年11月はサタンの使う三股作戦のうちの2つの策略、「嘘をつく」「騙す」という点について創世記3章から具体的にみてきました。それでは第3番目の策略「非難する」という点はどうでしょうか。サタンは神のように全能ではないので、人間と同様に将来に起こることを見抜くことはできませんが、私達の過去の歴史を知って把握しています。それで私達の失敗、過ち、弱点を突いて来ます。そうすることにより、私達の焦点を神からそらそうとするのです。サタンは私達が敗北者で、この世で価値のないもののように考えさせるのです。
私達には自制心がないことを知っているサタンは、私達の欲望、弱点、怠惰さ、向上心の無さ、無気力さ、すぐに安易な方へ流れてしまう傾向をよく知っていますから、それらを使って、 私達をそそのかすのです。例えば霊的なことに私達が従事しようとするときどうでしょうか。皆さんはデボーションを持つこと、あるいは一定の時間を設けて、祈ることに困難を感じることはありませんか。 そういうことに従事しようとすると、 悪魔がこうささやくのです。特に一日社会に出て働いて家に帰って来る人のことを、考えてもらいたいのですが、そういう時悪魔は何とささやくでしょうか。「自分がやりたくないと思ったら、それに抵抗することはない。その気持ちに従いなさい。仕事で疲れて帰ってきたんだ。自分を甘やかして、自分のやりたいことをすることは、お前の権利だ。何で疲れているのに、これ以上自分に鞭打って聖書を読んだり、聖書研究のため勉強したり、又祈ったりということに、時間を割かねばならないのか。そんなことは馬鹿げていて、お前はそんなことに自分の大切な時間を取られてしまって、それでもいいのか?」 このようにサタンがささやくと、私達もついその気になってしまいます。パウロがローマによる信徒への手紙七章で言っているように、自分の古い性質、肉の思い、罪の欲望に耳を傾けることは、本当に簡単です。特に疲れている時は尚更そうです。皆さんにはそういう体験はないでしょうか。弟子達でさえ、イエス様が捕らわれるその夜、ゲッセマネで、「起きて祈っていなさい」と、イエス様に命じられたのに、 起きていることができず眠ってしまいました。
さて私達がサタンの言葉に耳を傾け、彼の非難を最もだと受け入れて同意するなら、私達はそこで諦めてしまうことになります。罪に関しても注意を払わなくなり、自分の言動に油断してしまいます。そうすると罪の重力に引かれて、罪を犯してしまい、気がついたら敗北の穴に落ち込んでしまいます 困ったことに、サタンがそのどん底にもいて、追い打ちをかけるように「お前は何でここにいるのか」と非難します。「誰もお前なんか相手にしないし、神もお前を用いることはできない。諦めた方がいい。」と言って私達の心をくじかせ、落ち込ませます。この穴は自己憐憫の穴と言ってもいいと思います。ここが私達が最終的に落ち込む所なのです。私達は自分にこう言い聞かせます。「わたしは何と哀れな存在なんだろう。誰も自分のことをかまってくれないし、助けてもくれない。」 たちが悪いのは、 ここに落ち込むと、 自分を哀れに思ってしまうことです。自分の意志でこの場所に落っこってしまったのに、今度はまるで自分が被害者になったかのような気持ちになって、ひがんでしまうのです。皆さんも、そういう体験をしたことがありますか。
それではどん底の穴からどのようにして、はい上がれるでしょうか。ここから私達は自力で這い上がれると思うでしょうか。 しかし自力では所詮無理なんです。サタンが色々言って来て、私達の気持ちを落ち込ませるからです。「お前は30分早く起きて、デボーションをすることもできないではないか。お前の家族にすぐイライラして癇癪を起こすではないか。怒りの感情のコントロールもできないし、衝動買いもやめられないし、やけ食いもしてしまう。そんなダメな人間がお前だ」と。確かに私達に、身についてしまった悪習慣をただ止めよって言っても、それはしばしば自分の人生に遭遇した痛みから逃れるための手段、自己防衛のために私達が使ってきた鎧なんです。根本の問題を避けて、ただ「頑張って不健全な習慣から離れなさい」と言ってもできるものではありません。だから自力で穴からよじ登ろうとしても、結局は失敗してしまいます。あたかもそれは砂地獄、あるいは泥沼に足をすくわれるようなもので、自分から抜け出そうとして、もがけばもがくほど、かえってはやく沈んでしまいます。
さて解決法はあるのでしょうか。
自己憐憫の穴でもがき苦しんで、いつかその無駄な努力に疲れ果ててしまうときが来ます。その期間は人によって違います。数日、数週間、数ヶ月、あるいは数年、数十年その穴に落ち込んでいるかも知れません。私達が絶望的になり自分の力に無力さを感じた時、.私達は心の底から主の御名を呼び求めるのです。イザヤ書30:19に約束されています。「まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて必ず恵みを与えられる」 私達は自分が無力なものであることを、本当に認めたときに、主は私達をその穴から救出してくれると。 ヨハネによる福音書15章 に書いてあるように、イエス様を離れては、私達は何もすることができない(5 節)ということを私達は長いことかかって学ぶのです。
溺れている人を救助するときには、その人が暴れて手や足をバタバタさせているときは、救助できません。その人がバカ力を出して救助者にしがみつき、救助者を沈めてしまうからです。彼が力尽きて暴れるのをやめ、沈もうとする瞬間を狙って、初めてその人を救助できるのです。つまり溺れそうになる人が、自分を助ける努力を辞めた時、初めて救助者が助けの手を差し伸べることができます。
私達も同様に自分自身の終わりに来た時に、初めて私達は神に頼むしかないと認め、そのことを告白した時に、神が私達をその穴から引き上げてくれ、確かな岩の上に私達を置いてくださいます。全ての道が塞がっても、一つ空いている道があります。それが天です。天への道はいつも開いているからです。「主にのみ、私は望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、私の口に新しい歌を私達の神への賛美を授けてくださった。」詩編40:1-4上

 

 

 

第6回立ち帰る恵みI(2019年11月)

 

先月は終わりの所で少しサタン(悪魔)の仕業について触れました。主が私達が告白した罪を恵みのしゃもじですくい取って、海の底に沈めてくださり、「禁漁」という立札を海の波打ちぎわにせっかく立ててくださったのに、サタンはその立札を無視して、それよりもっと大きく人の目を引く「釣りのシーズン」という看板を立てて、私達が犯した罪を私達自身が再び釣り上げて、私達の記憶をよみがえらせ、嫌な気持ちにさせようとします。そして私達を駄目な人間と非難し、私達が神によって赦されたという喜びを奪い、信仰生活の歩みを邪魔しようとするのです。

 

ということで、今回はサタンの策略を少し深く学んでいけたらと思います。サタンは私達の魂の敵であり、三股の熊手を 使って私達を攻撃して来ます。一つは先月あげたように、信仰者がせっかく告白して赦してもらった罪を蒸し返し、告発したり非難したりして、私達の信仰を萎えさえる策略を用いますが、(これは立ち返る恵み第二部で取り上げます)今回はサタンが好んで使う他の策略を創世記3章の箇所を使って、エバの誘惑の仕方と、その結果どのようにアダムとエバがサタンに陥れられたのかを見ていきたいと思います。ここでその聖書箇所を引用します:

 

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に行った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」女は蛇に言った。「私達は、園にある木の実を食べてもよいのです。しかし園の中央にある木の実について、神は「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と仰せになりました。」そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。そこで、女が見ると、その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

まずエバはサタンに耳を貸して、彼と長い会話を始めました。サタンは、人間よりずっと狡猾なので、彼と論じて勝てる人は誰もいません。そういうふうに長いこと立ち止まって、 サタンの言うことに、耳を傾けようとすること自体、実はとても危険なことなのです。 だから私達もサタンが囁いたとき、それに耳を貸してはいけません。なぜならサタンが私達に語りかけてくる動機は、私達を誘惑し罪を犯すように、仕向けることだからです。 案の定、サタンはエバを陥れようと、 第一の作戦を講じます。まずエバに疑いの気持ちを抱かせます。どこにそれが出てくるでしょうか。「神はそんなことを、本当に言ったのか?」 「本当に」 という言葉が鍵です。 神の言葉をそのまま素直に受け取らず、 「本当にそんなこと言ったのか?」と言われると、 不思議なもので、 神の言葉を疑う気持ちが起こってきますよね。それに対するエバの答えを見てください。早くもサタンの策略にハマり、疑いが起こりぐらついて、神の言った言葉を正確に伝えることができなくなっています。神が言ったオリジナルな言葉と比較してみてください。創世記2:16, 17と どこが違っているでしょうか:神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」しかしここでエバは 善悪の知識の木に「触れてもいけない」という句を加えて、神が禁じたことをもっと強くして、いかにも神が厳しい方で触ることも相成らないように、エバに感じとらせたのです。

 

 次にサタンは、彼のお気に入りの作戦を使います。嘘をつくことです。サタンは、何と言いましたか。「あなた方は決して死にません」と。 2: 17節で神は「必ず死ぬ」と言いました。しかしここでサタンは全く逆の、 真理に対抗した嘘をついたのですが、その偽りが、あたかも真実であるように、堂々と自信を持って言っていることに、注意をしてください。嘘をまことしやかに、 本当のことのように言われると、 私達もサタンの言ったことを信じていいような気に成りませんか。

 

そして5節で、サタンはエバを騙します。「あなた方がそれを食べるその時、あなた方の目が開け、あなた方が神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」さてこの言葉は何をほのめかしているのでしょう 「神はあなた達が神と同じようになり、善悪を知るようになることを、知っている。でもそれをあなた達に神は与えようとしない。ということは、神は良いお方ではない」とほのめかしているのです。なぜならサタンが言わんとしていることは、「神はあなた達にわざと良い物をあげることを拒んでいる。神はケチで良い物を自分のためだけに取っておいて、あなた達にシェアしようとはしないんだよ」と。(もちろんそれをこの二人に与えることは、良い結果を生まない事を神は知っているからですがサタンからそんなことを言われたアダムとエバはどう感じるでしょうか。神に対して不服や、不満が湧き出て、尚更禁じられたものに執着してしまい、欲望が湧いてきます。またこの木の実を食べれば、神と同等なくらい賢くなると言われて、自分の中にあるプライドがむくむくと頭を持ち上げ、自分達が単なる被造物であることを忘れ、決して人間が神のようになることはできないことを悟れませんでした。

 

エバはまんまとこのサタンの手口に引っかかり、惑わされ、騙されてしまいました。そしてサタンの嘘を信じ、その禁断の木の実を、自分の物にしたいと欲したのです。すると欲望の心で見たこの実が、いかにも麗しく見えるようになりました。6節です。食欲をそそり、目の美感をくすぐり、賢くなれると言うその実を絶対に食べたくなりました。

 

さて考えてみてください。誘惑されたときは、今誘惑があるということに私達は大抵気付きます。例えば、ダイエットしているのに、ものすごくカロリーの高い美味しそうな物を見た時、ああこれは誘惑だとわかります。イエス様の荒れ野での誘惑も、断食をしてお腹がすいたイエスに、「石をパンに変えてみなさい」に始まり、他の誘惑もイエスのこの地上でのミッションをそらし阻止し、イエスが十字架の道を選択しなくとも、サタンの言うなりになればこの地上すべての国々とその栄華を、イエスにサタンは与えると近道を提供しようとしたものです。勿論これがサタンから出た誘惑であることに気付いたイエスは、断固として、その誘惑を拒絶しました。ところが騙される時には私達は騙されているとは気付きません。それが厄介な所です。エバは騙されていることに気付いていなかったことがテモテへの手紙一2章14節でわかります。「アダムは騙されませんでしたが、女は騙されて罪を犯してしまいました。」

 

私達はこのように惑わされやすく騙されやすい哀れな存在です。どおりで一人でサタンからの誘惑に打ち勝とうとしても、イエスのような勝利を収めることが出来ない者です。

 

立ち返る恵みの第二部でサタンのもう一つの策略を見たあと、どのようにサタンの攻撃に勝利するのかを、一緒に考えてみたいと思います。  

  

 

第5回 清めの恵みⅡ (2019年10月)

 

今回は先月の続きで清めの恵み二部です。

 

先月は清めるための工程として、火を使って不純物と純粋なものを分離するということを学びました。そしてなぜただ聖書を読み、礼拝説教を聞き、それを適用するだけでは 、清めとしては十分でないのか、神はなぜ困難をお用いになるのかという質問をして終わりました。

 

私達の人生に起こる困難、試練は、私達の心の中の底に沈んでいるものを、浮き上がらせる役目をしてくれ、そうしてはじめて私達は浮き上がって来た浮きカス、不純物に気付くからです。

 

疲れて帰って来て、家の中が散らかっていると、イライラして子供を責めてしまう。体に不調があったり、気分が乗らないときは、ちょっとした家族の言動にムシャクシャして、当たり散らしてしまう。運転しているときに、他の車が割り込んで来た時、カーっとなって、ひどい言葉で怒鳴っている自分に気づく。夫が仕事先の問題やストレスを、家で発散させる。悪行雑言を浴びせたり、子供が騒ぐと怒鳴って叱りつけ、子供を怯えさせてしまったり。 はたまた嫌なことが起こると、人を責めてしまう。「あの人がああいうふうにしなかったり言わなかったら、私もこんなことをしなかったし、言わなかった。」「 事がうまく運ばなかったのは、人にプレッシャーをかけられたから、実はこの選択は、私の本来意図するところではなかった。」そんなふうにして自分を守ろうとし、言い訳や言い逃れをして、自分を正当化するのは、自分の中にある醜さ、アク、この隠れていたものが、表面に浮き出て来た証拠です。それらは私達の中に既にあったものなのです。

 

マルコによる福音書7章21節から23節で、イエスはこう仰っています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 またエレミヤ書17章9節に人間の心について、こんなことが言われています。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」 

 

試練なくしては、私達は割りに良い人物だと、自分自身に対しても誤魔化し、騙してしまう傾向があります。だから大変困難な状況に置かれるとき、そのような外からのプレッシャーに揉まれ、熱い熱の中に投げ込まれるときに、アク、浮きカスが出てくるのです。ハドソンテーラー(中国の内陸に入り、中国人伝道のため自分の人生の中で50年以上を中国人のために捧げた宣教師。最愛の奥さんを中国の地でまだ若い時に、病気で亡くしている。OMFと言う世界各国に存続する宣教団体の創始者)は新米の宣教師が中国に到着すると、必ずやってみせることがあったそうです。それはコップに並々と水を汲み、それをテーブルの上に置いて、テーブルをわざとドンドンと叩いて、水がコップからこぼれるという実験をしてみせたのです 。そしてこう言ったそうです。「ちょうど強く外側の圧力で叩かれたコップの水がこぼれてしまったように、伝道をしようとすると、本当に色々な邪魔が私達の所に、強く吹きつけてくる。でもこの強い風は他でもない私達の中に既にあるものを、押し出して露わにしてくれるものなのだと。」コリントの信徒への手紙一4章5節に、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにする」とあります。理不尽なことに会った時、どんな反応をするでしょうか。自己憐憫、恨み、憎しみ、怒り、許せない心、復讐心、妬み、悪行雑言、陰口、失望、絶望、諦め、悲嘆、鬱などいろいろなカスが噴き出て来るのです。

 

そういう浮きカスが出て来たら、どうするでしょうか。ここが大切な所ですが、それを罪だと認めることです。ヨハネの手紙一一章9節に 私達のするべきことと、神がなさることが挙げられています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私達を清めてくださいます。」この節からわかる私達の側で求められることは、「告白する=言い表す=神への私達の評価に同意する=認める」ことです。神の側ですることは「私達の罪を赦し、清めてくれる」ことです。私達がよくする間違いは、罪を犯した時、神に「赦してください」と嘆願すること。しかしそういうことをしなさいと、ここで言っているでしょうか。ここで命じられていることは、私達が犯したことを罪と呼んで神の見ていらっしゃるように、私達は見て同意し、認めて、私がしたことは罪であったと神に告白しなければいけないのです。しかし私達はこのストレートなことを、なかなかしようとはしないものです。罪を罪と名指して呼ばない。そして罪と呼ぶ代わりに、「間違い、過ち、弱点、失敗、手違い、へま、し損ない、しくじり、誤り、覚えていない、忘れる」と言った言葉に置き換えて、自分を悪者にしようとしないものです。 しかしダビデは違っていました。彼は大きな罪を犯しましたが、罪を隠さず、罪を罪と呼んで神に告白しました。詩編32章5節のダビデの応答を見てみましょう。「わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」 

 

それでは私達が罪を告白したらどうなるのでしょうか。神がその浮きカスを、恵みのしゃもじですくってくれます。私達がその浮きカスを自分ですくうことはできないのです。罪を赦し清めてくださるのは神様です。さてすくった浮きカスを神はどうするかというと、それを海の深みに投げ入れてくれるのです。ミカ書 7章19節にこう言う約束があります。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」と。それだけでなく神は私達の犯した罪を思い出さないと、ヘブライ人への手紙10章17節で約束してくださっています。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。」

 

でも神が私の罪を思い出さないと言っているのに、なぜ私はしょっちゅうその事を思い出して嫌な気持ちになったり、自分を責めたり、自分は駄目な人間だと思ったりするのでしょうか。それは海の波打ち際に立てられたこういう立て札があるからです。「釣りのシーズン」これは悪魔の嘘です。神が私達の罪を海底に深く沈めてそこに「禁漁」という看板を立てました。つまり神が底に沈めた罪を、釣って取ろうとしてはダメとはっきり禁じているのに、(だから神は決してその記憶を呼びさまそうとはしない) 私達の記憶を呼び戻そうとするのは、サタンの仕業なのです。なぜならサタンは信仰者の告訴人、あるいは非難者であるからです(ヨハネの黙示録12:10)。一旦神に告白したら、神は私達を赦すし、その罪を私達に思い出させないと約束してくれています。それなのにその事が記憶が蘇り、気持ちが沈んだなら、それはサタンの仕業と気付き、そのサタンのそそのかしに、耳を傾けない事です。せっかく神が沈めてくださった罪という魚を、釣らせようとしている、張本人はサタンです。それを心に留めることが、聖化の過程を進んでいくうえで、非常に大切なのです。

 

 

第4回 清めの恵みI (2019年9月) 

 

さて恵みについて6月から色々な角度で学んでいますが、今月は今まで学んだことのまとめを前半にし、それから今月のタイトルである「清めの恵み」の第一部を後半にあてて考えてみたいと思います。続きの第二部は来月10月に更新して記載します。

 

まず恵みの一回目は、「神に憩う恵み」でした。これはクリスチャンになると、自動的に私達が招き入れられる恵みです。私達は恵みという馬車の中に、既に招いてもらって、その馬車に乗っているのです。これからは、イエス様に人生の手綱を渡して、人生の梶を握ってもらうのです。私達はただその中で憩っていれば到着地に、連れて行ってもらえるわけです。その際私達は 自分が抱えている荷物、それは私にとっては重荷な物か、あるいは宝なのか、もしくは両方であるかもしれませんが、それが何であれ、それを降ろして、楽になって旅をすればいいはずであるのに、私達は往々にして馬車に乗っても、その荷物を降ろしません。それは馬車に乗るように招いてくれた方に、とても失礼なことをしているわけですし、端から見ると荷物を馬車の中で、担いでいるのは、実に馬鹿げていることなのですが、当人は気がつきません。.私達はどうでしょうか。神の元に憩って、心の重荷を降ろして、私達の定められた人生を歩んでいるでしょうか。というのが、第一回の憩いの恵みでした。これはクリスチャン生活をする上で、基礎となることなので、このことを覚えることは、とても大切です。

 

二回目は一回目の続きで、「託する恵み」、あるいは「委ねる恵み」というものですが、私達が恵みの荷馬車に乗せられているにも関わらず、どうしてなかなか自分の抱えているものを、下に置いて、憩うことが出来ないのかということを考えました。それは下に置くということが、手放してほっぽらかしにすること、又は見捨ててしまうこと、あるいは下に置いてしまったら、それが失くなってしまうことを恐れるからです。それでここで覚えて欲しいことは、私達が抱えてきたものを降ろすということは、それを捨てなさいと言っているのではな いということ。むしろ荷物を安全な場所に移すだけなのです。ちょうど私達が大金を家に保存しておくことは、安全ではないので、銀行に保管するように、私達の抱えているものを、もっと安全な場所に移すという風に理解すると、私達はその荷物を下に置くことができます。それはどこでしょうか。神様の御手に託す、又は委ねるということです。誰にそれを託すのか、委ねるのか、それは他でもない、一番信頼のおける神様だということが分かると、たとえ荷物が宝であったとしても、私達は置く場所がわかっていると、闇雲にどこにでも放ってしまうのではなく、荷物を主に託すだけ、委ねるだけ、それがわかると、私達は荷物をようやく肩から降ろすことができるようになります。

 

第3回は「自由になる恵み」。猿を例にとって、捕まえた猿を、どのように逃がすことができるかについて考えて見ました。私達も実はこの世にあるものをしっかり握っていて、神様がくださろうとしている霊的祝福を受け取ることが出来ない者です。でも神は私達に霊的なことに関する飢え渇きを与えて、私達を縛っているものから解放させてくださろうとしています。しかしある人はなかなか頑固なので、掴んだものに価値があるように錯覚した結果、なかなかそれを離そうとしません。ちょうど猿が壺の中にあったピーナッツを、その手を離せば自由になり、逃げることができるのに、そうしないと同じことです 。その結果私達は罪の奴隷となってしまい、本当の自由を得ることができません。それで主は、ときに私達を痛い目に合わせて、例えば、試練や苦難、苦労、病気などの痛みや悲しみを体験させて、初めて霊的に私達を目覚めさせてくれることがあります。このようにして、神様によって、私達の自我が砕かれてはじめて、キリストのもとに来て、私達がつかんで離さなかったものを離すことができるようになります。ちょうど猿の自由な方の腕を棒で叩くと、ピーナッツを掴んでいた腕を離して、痛んだ腕をさするように、猿は痛みを感じたときはじめて、欲望より痛みを優先させて、それによって壺の中の手が自由になります。同様に私達も痛みという神からの懲らしめ、あるいは訓練を体験することを通して、本当の意味での自由を体験することが出来るようになります。へブル書に神からの訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます (へブル書12:11)とあります。私達も神の恵みによって、私達を縛っていたものから、真に解放されたでしょうか。

 

今日は一つ進んでクリスチャンとして目指すこと、「清めの恵み」について考えていこうと思います。クリスチャンとして私達には3段階の成長があります。第一は義化。これはキリストを信じる時、私達はもはや神の目には、罪人として映るのではなく、キリストの義を着せられるので、義人として扱われるようになること。これを義化と言います。第3の段階は、究極なクリスチャンの目指すゴールで栄化。栄化とは、私達が死んで天国へ行くと、栄光の姿に変えられるので、そのことを栄化と言います。そして今義化と栄化の間に生きている私達は、聖化の過程を通らされています。即ち神が私達を徐々に清いものへと変えてくださる過程です。

 

それでは私達はどのようにして清められるのでしょうか。神様は精錬という工程を通して私達を清められます(イザヤ48:10)。 金や銀から不純物を取り除くには、窯に 溶かした金属を入れて、高熱で熱します。そうすると不純物(金属のカス)が浮かび上がってきます。それを時間をかけてきれいにすくいとります。すくいとったら又溶液をよくかき混ぜて、高温で熱します。そして浮きカスをすくうという工程を繰り返すのです。ちょうど鍋に肉の入ったシチューや、スープを作る時、汁を熱するとアクがたくさん出るので、それをすくわねばならないと同じことです。それでは窯は何を示しているでしょうか。私達の心です。私達の心の中にも、純粋なものと、不純物が混じっています。この不純物と純粋な物を分離するためには、火という試練が必要であると聖書に記されています。これは私達信徒が通らねばならない、神が意図したことです。この試練は私達の信仰が本物であるか、試すためなのであるから尊いのであると第一ペトロ一章7節は教えてくれます。

 

私達の中にある醜さ、隠れている罪は、試練 、難しい環境、状況という火の中で熱っせられなければ、上に浮かんで来ません。箴言17章3節の御言葉をここに引用します。「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。」さて私達を練る道具として、神はなぜ困難をお用いなるのか、と私達は考えると思います。なぜただ聖書を読み、礼拝説教を聞き、それを適用するだけでは 、十分でないのかと。しかし私達自身薄々気付いているように、私達は自分の過ち、失敗。弱さに霊的に盲目であったり、気付いていても、言い訳や言い逃れをして、自分を正当化することがすごく上手な生き物です。だからこれらの不純物は心の奥深くに隠れてしまっているのです。私達の人生に起こる困難、試練は、私達の心の中の底に沈んでいるものを、浮き上がらせる役目をしてくれ、そうしてはじめて私達は浮上ってきた浮きカス、不純物に気付くのです。

 

この続きを10月にまた考えてみたいと思います。

 

 

第3回 自由になる恵み (2019年8月) 

 

今日は猿を例に取って、私達がどのように霊的に自由になるのか、その過程を考えてみたいと思います。猿を捕らえるには、猿が生息しているジャングルのような場所に行って、猿がよく通りそうな道跡を見つけます。そして猿が一番見つけやすい場所に、口が絞まって細くなっている壺を置きます。猿をお引き寄せるため、壺の中にピーナッツを入れます。猿がその場所を通り、今まで見たことのなかった、壺の存在に気づきます。その中を覗いて見ると、猿の好物のナッツが入っているではありませんか。猿はどうすると思いますか? 猿は壺の中に手を入れ、ナッツを手に一杯掴み、手を壺から抜こうとしますが、口が細くなっているので、抜けません。どうしたら手が壺から抜けでるのでしょうか。ナッツを手放すことです。しかし猿は手放すと思いますか。猿の習癖として、一旦掴んだものは、絶対離しません。これが人間と猿の違いです。 人間も欲はありますが、危険と欲とどっちが大切か、判断して欲より、危険を逃れる方を選びますが、猿はそうではありません。ではどうすれば猿を自由にすることが出来るか。これが今回のトピックです。

 

1. 乾きを覚えさせること。

 

どうやって喉の乾きを猿に起こさせるかと言うと、猿の好きなベリー(ラスべリ-、ブルーべリー等)に塩を振りかけます。そしてそのべリーを長い棒の先につけて、壺の横に置きます。猿がべリーを見て、掴んでいた手を離し、食べることを期待してです。塩が降りかかったベリーを食べた猿は、喉が渇いて、川か池のような水の溜まり場を探しに行きます。こうして猿は自由になります。哲学者パスカルがこう言いました。「誰でも心の中に神の形に型取った真空管がある。神様だけがその真空管を満たすことができる。"」イザヤ55:1, ヨハネ7:32。神様は一人一人に違った空虚さという心の穴を作ってくださっています。どんな空虚さを人は体験するでしょうか。

 

1)人生に満足できない、ただ食べて寝て楽しんで、人生はそれだけか;2) 人生に行き詰まってしまう。大変な病気にかかったり、事故にあったり、(星野富広さんの例) ;3) 放蕩息子のように、ギャンブルやお酒やお金の無駄遣いをして、自分の間違った選択を後悔する;4) クリスチャンに出会って、クリスチャンが、他の人と違う、他の人の持っていないものを持っていることに気付く。喜んで平安でいることに、惹かれる。

 

さて私達もどのようにして、神様のもとに来たのでしょうか。いずれにせよ、霊的な乾きを覚えたからではないでしょうか。その時に私達がしがみついているものを、手放すことができるのです。

 

 

2.今掴んでいるものより、良いものを提供すること。

 

第二番目に私達ができることは、ナッツよりもっと猿の喜ぶバナナを提供することです。猿はバナナの方をナッツより好むので、壺の中に突っ込んでいた手を離して、バナナをとろうとします。つまり、猿は誰から強制されなくても、自分から進んで、掴んでいたものを放棄し、それよりももっと良いものを引き換えとして取ることを選びます。

 

神様も同じです。神様は私達をいかに愛してくださっているかを示すため、様々な方法を使って、私達の注意を引こうとします。そして私達を閉じ込め捕えている物から解放しようと、もっと素晴らしい物を提供して下さいます。その一つは、恵みです。第一コリント 2:9. 

 

私達がしがみついていて、放棄できない、放棄したくない物は、何でしょうか. 子供、夫、親、家、仕事、痛みや傷、将来への不安、心配事、嫌な思い出、神様への奉仕、不健全な趣味や、不健全な人間関係、夢、壊れた人間関係、反抗心、怒り、許せない心、子供や配偶者に対しての非現実的、あるいは過剰な期待、相手が悪くて自分が絶対に正しいと思う気持ち等々です。

 

神様は、私達が自分から進んで、握っているものを、放棄することを望んでおられます。

 

私達はそれらをコントロールすることを、放棄しなければなりません。神様がくださった私達が関わっている人間関係、活動、所有物を、あたかもそれらが、神様の代理となってくれるように、しっかり握りしめるのではなく、神様に握り締めている手を開けて、手を広げることができるように、祈ってみましょう。神様が私達の人生の一番になることを望んでいるからです。そして神が与えてくれるもっと良いものと、交換しましょう。

 

 

3.痛みを負わせること。

 

もし猿がバナナを与えても応ぜず、壺から手を離すことをしなかったら、どうすればいいのでしょうか。壺の中に入っていない自由になるもう一本の手に、棒を軽く打ち付けます。痛みを感じた猿は、壺の中に突っ込んでいた手を壺から離し、痛みを感じた手をさすって、痛みを和らげようとします。自分を喜ばす物に執着するより、痛みを何とかしようとする方が優先したわけです。猿は痛みを感じましたが、痛みが彼を縛っていたものから、離してくれたのです。そしてその結果彼は自由になりました。

 

同様に主は私達を自由にしてくれるために、時にして私達に、痛みを負わせることがあります。へブル書12:11

 

 

4. 壺を壊すこと 

 

抵抗している猿に施す最後の手段。猿を束縛から解放するためにできることは何でしょうか。猿がしがみついて、離そうとしなかった物、壺自体を、粉々に砕くことです。つまりもはや神様と戦うことを辞め。白旗を振って神様に降伏することです。神様によって砕かれることです。詩編 51:17. これが神に明け渡しするということです。反対にサタンは私達が、何かに拘束されてそこに閉じ込められ、逃げられない状態にはまってしまうことを望みます。しかし神は私達を自由にするために、時には 私達を砕かれるのです。

 

ある人が霊的で、敬虔な成熟したクリスチャンにこう聞きました。「あなたはクリスチャンとなって年月を積み重ねてきたので、今の方が信仰に歩むことは、昔より容易になったのではないですか?」と。その人は少し考えてからこう答えました。「そうではありません。信仰によって歩むことは、いつになってもチャレンジです。ただ今は昔よりずっと早く神様に信頼し、委ねる という応答ができるようになりました。神に抵抗して痛い目に合うより、なるべく早く主に全てを明け渡していくことが、昔より出来るようになりました」と。

 

さて私達は、神様の憐れみと恵みにより、私達をがんじがらめに縛っていた罪から解放され、自由になりました。しかし自由になった今でも、私達は神様より、目に見える何かにしがみつこうとする傾向があります。私達が握っている物は何でしょうか。私たちもなるべく早くその事に気付いて、コントロールしている物を、手放し、神様に明け渡し、本当の意味での解放、自由を体験できるように、祈っています。そして自由の恵みを体験するとき、思いもかけず、私達と神様との間を遮っていたものから解き放たれ、神との親しい関係を、私達が獲得できるようになるのです。

 

 

第2回 委ねる 恵み(2019年7月)

 

 

今日の学び、「委ねる恵み」は先月6月の学び「憩う恵み」とつながっています。先月の学びで重い荷物をしょって歩いている旅人が、親切な荷馬車のオーナからの招きで 荷馬車に入れてもらった話しをしました。しかしこの旅人は荷馬車の中で重い荷物を降ろさずに、腰を曲げながら 、荷物を担ぎ続けて荷馬車に乗っているということも、お話ししました。実はこれは、クリスチャンの歩む人生の旅を表しています。イエス様に出会う前は、私達は問題、試練、失敗を捨てることもせず、重荷としてしょいこんできましたし、又他方自分が大切だと考える物や人という宝物も失うことを怖れて、宝物も重荷も全ていっしょくたにして、自分の肩に自分一人で抱えこんで歩んで来ました。でも神様に出会ってから、私達は神の恵みに入れられました。荷馬車は神の恵みを表しています。恵みの中に入れられた私達は、その恵みを受け入れて、恵みの中に休み憩っていれば、その神の恵みが、私達の人生に働いて、私達を人生の旅の終わりまで安全に導き、運んでくれます。その旅は決して道を外すことはありません。なぜならイエス様がその馬の手綱を握って、その荷馬車を動かしてくれているからです。しかし私達は信仰を持たなかった以前のように、クリスチャンになっても、重荷を降ろさず、自分の力でクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。それは愚かなことで、実は神の恵みを無駄にしていることになるのです。 荷馬車を引いている馬が、私達が背中の荷物を降ろそうとも、降ろさずとも、同じエネルギーを使って、私達を目的地まで連れて行ってくれるからです。ガラテア書5:1にこう記されています。「この自由を得させるために、キリストは私達を自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」

 

さて私達が荷を降ろすことができない理由を、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。ここに二つの器があると考えてください。一つはプラスチック製、もう一つは瀬戸物製です。プラスチックのコップを落っことしても、私達は何とも思いません。なぜなら壊れないからです。しかしこれが瀬戸物だったらどうでしょうか。手から離れると同時に、私達はすぐに手を下に置いて、受け止めようとします。それが自分にとって、価値があると思うと、みすみす手放せないのです。同様に「荷物を降ろしていいんだ」と言われても、なぜ躊躇するのでしょうか。それは「荷物を降ろせ」とは、何を意味するか私達が誤解しているからです。その誤解とは何でしょうか。荷物を置いて自由になるとは、「荷物を放ったらかして、そこから立ち去りなさい」と言っているのではないということです。そうだとしたら、私達はどういう気持ちになるでしょうか。1. 恐れ、2.疑い、3. 心配、4.不信、そういう思いで一杯になると思います。そのような誤解があるから、私達はなかなか荷物を背中から降ろすことができないのです。

 

同様に私達が何十年間もしがみついていた重荷や宝物を下に置きなさいと言われても、それが自分にとって何等かの価値のあるものであると考えるならば、それを「置きなさい」を「捨てなさい」と言っていると勘違いしてしまうと、できません。そうではなく、むしろこの荷物を、安全な場所に預ける事なんだということを、私達が悟ったらどうでしょうか。捨てる、置きっぱなしにする、放ってしまうのではなく、ちょうど宝石、貴金属を銀行の金庫に預けるようなもので、この世の中で一番安全な場所、安全な人、すなわち神にその荷物を預けることなんです。

 

マレーシアでは、共働きの夫婦が赤ちゃんや子供を世話をしてくれる子守りを見つけて、子供を一日その人に預かってもらうことが当たり前のようになっています。しかしそこに子供を預ける危険が待ち受けています。全く面識がなくサイトや広告などから、子守してくれる人を探すため、子守が一体どういう人物であるかがわからずに、赤ちゃんを預けると、とんでもない事が起こってしまうことがあるのです。つまり子守として頼んだ人が、赤ちゃんを虐待する事件が多発しています。泣き止まない赤ちゃんの頭を激しく揺さぶって、脳にひどい損傷が生じ、脳内出血を起こして、赤ちゃんの命にかかわるような結果を生んだり、子供を椅子から落っことし、怪我をさせて死なせたり、はたまた子守の夫が幼児に性的虐待をしたり。恐ろしいゾッとするようなことが続出しています。子供を託した相手がどんな人であるか、前もって予測できず、その人が大丈夫かどうか保証はできないからです。

 

しかし私達を重荷から休ませてあげようと約束してくださったお方は、他でもない神様なのです。私達は当てにならない人間に、私達にとって価値のある荷物を預けるのではありません。私達がその荷物を神に手渡すときに、神がしっかりそれを保管してくれるのです。一言で言うと荷物に置いていた手を離して、神に任せる、責任を神に移すことなのです。テモテへの手紙ニ1:12 にこうあります。「 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥ていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしに委ねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」神がわたしに委ねられている全ての物をかの日まで、守ってくださるとここで約束されています。私達の前に降りかかる全ての重荷、問題、悩み、心配ごと、関心事、そして私達の大切な人を全て神に手渡して神に委ねることを、神は求めておられます。「主よ、これはあなたの問題です。わたしはこの問題をあなたに差し上げ、あなたに手渡します。私はどうしていいかわからないからです」と。主が私達に求めていることはこれだけなんです。主は私達が私達の人生において、御自分が真実なお方であることを、証明しようと待っていらっしゃいます。

 

これが神の元に休む恵みに続いて、私達が学ばなければならない、神に託す恵み、あるいは神に委ねる恵み、あるいは神に手渡す恵みです。このことが理解できると私達は、自分の荷物を背中に降ろすことが容易になると思いますが、いかがでしょうか。

 

 

第1回 憩う恵み (2019年6月)

 

私達は恵みによって救われたとエフェソの信徒への手紙2章8節に記されています。 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」でも実は、その恵みはただ単に、救われるときに働くだけでなく、クリスチャンが歩んで行 く人生全般を通して、働いています。ですから私達が信仰生活を続けていく上で、私達自身がその働きに気付いて、その恵みの恩恵を受けるかどうか は私達にかかっています。というわけで神の恵みというのは、非常に大きなトピックなので、このことを色々な角度から、何回かにかけて見ていこうと思います。

 

さてこういう場面を想定してみてください。

 

ある人が非常に重そうな荷物を、背中にかついで道を歩いています。そこに荷馬車を引いた人が現れて、歩いている人に、話しかけます。「すみません。あなたは重い荷物をかついで、大変疲れているように、お見受けします。その重い荷物を背中にしょって歩くより、わたしの荷馬車に乗って休んだら、ずっと楽になると思いますが、どうですか、この荷馬車に乗りませんか」と。この旅人は「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」と言いながら、荷馬車の中に乗り込みます。「助かった。やっと楽になれる」と一人ごとを言いながら。 道をしばらく走り続けた後、ふと荷馬車を引いている人が後ろを振り向くと、びっくりしたことに、この旅人は荷物を降ろさずに、荷物を背中に担いだまま、この馬車に座っています。それで荷馬車を引いている人はこの人に聞きます。「荷物を下に置いて、休んでくださっているとばかり思っていたら、どうしてそうせずに、そんな大きな荷物を担ぎ続けておられるのですか」と。それでこの旅人はこう答えます。「 あなたは私に充分親切にしてくれました。だからこれ以上あなたには、迷惑をかけられないのです。」

 

さてこの旅人は、自分が可笑しなことをしていることに気付いていません。馬は荷台の中にあるすべての重みを運んでくれます。この旅人の体重も、荷物も。この人が荷物を背中にしょっても、しょわなくても、馬は同じ量のエネルギーを使って走っているのです。背中にしょったまま荷馬車に座っているなら、彼は自分のエネルギーを無駄に浪費しているのです。

 

ではどうしてこの旅人は、荷物を降ろそうとしないのでしょうか。荷物は彼にとってとても価値のある大切なものなので、とても自分の身から離すことなんてできないと考えたからでしょうか。それともいつも荷物を背負うことが習慣になってしまっていて、自動的に担いでしまうからでしょうか。はたまた全てを自分のコントロール下に置きたいと考えるからでしょうか。いずれにせよ彼にとって、その荷物は大切なものでありました。それではどうでしょう。どんなものがその中に入っていたから、彼の許から手放せなかったのでしょうか。まだ若い人だったら、それは自分の持っている夢、将来の人生計画であるかもしれません。あるいは30代から50代の男性であったら、学歴、自分の仕事、社会的地位であるかもしれません。又結婚した女性であるなら、子供か夫か家族か。もしかしたら手放せない荷物は良い物、自分にとっての宝物ではなくて、悪いもの、たとえば許せない心、過去の過ち、心の傷、心配事、そういうものであるかもしれません。そういうものを捨てきれずに、人生を歩み、そのいらない重みを引きずって、いたずらにその重荷がこれからの人生に影を落としているのかもしれません。

 

それでは馬にひかれた荷馬車は何を象徴しているのでしょうか? 神の恵みです。イエス様を信じた時点で、私達は既に神の恵みに入れられているのです。これからは私達は一人で、自分の重荷を担がなくてもいいんです。どうしてかというと、人生という旅を、重い荷物をしょって喘ぎながら歩むことから私達は解放されたからです。馬の手綱を握って荷馬車を動かして、恵みの舵をとってくださるイエス様から、私達は既に個人的にその馬車の中に入って憩うように招き入れられたからです。でも多くのクリスチャンは、それに気づいていません。

 

神の恵みは、私達が一生懸命に祈った結果、与えられるものでも、私達が神に従順になって、始めて与えられるものでもなく、信仰を持った時点で、私達はこの恵みを利用できのです。マタイによる福音書11章28節29節に何と書いてあるでしょうか。何が約束されているでしょうか? 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのものに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる」と。 神が私達を休ませてくれると約束してくださっているのです。ところがこの旅人のように、恵みの中に招きいれられたことにも気づかず、私達の多くはクリスチャンになっても、自分の荷物を恵みという荷馬車に降ろそうとせずに担ぎ続けているわけです。こういう人はクリスチャンになっても、喜びと本当の解放を体験することはなく、いつもしかめつらをして、全て人生に起こることを、歯をくいしばって自分で対処し解決しなければならないと思い込んでしまっています。神様にも自分の問題に対して迷惑をかけるわけにはいかないと勘違いして、本当の意味のキリスト者の自由を経験していません。でもそれは私達が抱えている荷物にも問題があるのです。その荷物が先ほどあげたように、私達にとって宝であれ、重荷なものであれ、私達が全て自分に起きることを、自分のコントロール下に置こうとする限り、私達はいつまでたっても、その荷を十字架の元に置いて、憩うことを学べません。ここを私達が信仰によって受け止めるかどうかが問題です。これがクリスチャンとなって学ばねばならない一番基本の真実です。神の元に憩って休んでいる恵みを、私達は体験しているのでしょうか。